私の小児眼科の時期の詳細な記録は、残念ながら病院側の不手際で、誤破棄もしくは紛失しているので、治療の内容はよく分かりません😕😨


 それでも、母子手帳や当時の領収書などから、わかる範囲の事を書いていきます。


 私が先天性緑内障と診断されて、1週間後に両目の手術を受けました。


 当時の緑内障の手術は、眼圧の素になる眼房水を排水する事が最大の目的で、それは今も同じです。


まずは、排水管を通す事をしますが、傷をつけて造るので、体は修復しようと、排水管を治そうとします。


 次は、治そうとして塞がりかけた排水管を、再度掘り返す事になります。


 そして1か所で数回、排水管の掘り返しをして、排水管が埋もれないように、体に覚えてもらうのです。



 私は小学校に入る前に、左目は11回と右目は10回ばかり手術をしたようです。


2歳半までは、両目を同時に手術したらしく、分厚い眼帯で出目金のようとか、あて金という病院独自の金物にたくさん穴を開けた眼帯になると、仮面ライダー見たいと兄弟に言われていました。


ただ、右目の手術をやめ、積極的治療をしないと加藤医師が判断した状況は、記録が処分されてしまったのでわかりません。



 小学生の時代は、緑内障の手術はありませんでした。


 けれど、病気で黒目が青白く変色していて、いじめの大きな原因にもなっていたし、右目は太陽光すら感知できないし、眼圧は高めで安定した状況だったから、私は人生で初の自己決定と自己責任を覚悟して、親子論争を押し切り、右目を義眼にしました。


 摘出した右目は、母と相談して、病理検体として大学病院に提供しました。


 当時の義眼にするための、摘出手術は、眼を動かす筋肉を残して、空洞になったところに土台になる樹脂の球を入れて筋肉の拠り所にして終わるのです。


 でも、私は樹脂の球と相性が悪く、2回挑戦しましたが厳しく、通常とは違う形の義眼にする事で落ち着きました。



 今でも、10歳でした親子論争は、ちょっぴり影を残していると思います。当時、母は

私が望むならと賛成してくれたけれど、父は見た目のために生身の体を摘出するなんてと猛反対で、私は見えないし治らないし見た目も悪いからいらないと啖呵をキリ、死ぬまで後悔するなと、言われました。


 それ以来、父からは何を考えているか謎で不可解な要注意人物になった時間が四半世紀以上続きました。



 中学生になり、吹奏楽部に入った事で、左の緑内障が進行しました。


吹く事が、顔の筋肉を過剰に使う事になり、眼圧を上げる要因になり、初めて視野狭窄を体験しました。

 吹く事はドクターストップになり、体育の授業中に1メートルの高さの平均台で立つ時、見えるはずの範囲が見えなくて、視野狭窄を体感した瞬間でした。



 そして小児眼科時代の最後の緑内障の手術を受けました。


この時は、排水管を造り、再度の掘り起こしを回避するため、マイトマイシンCと言う抗がん剤を希釈した液を塗り、排水管を長持ちするようにした手術だと思います。


体調が不安定な月経中の全身麻酔だったので、寛解していた喘息を再発したり、いろいろあった小児眼科の時代でした。



 今現在、私の緑内障は最終盤の攻防をして失明を回避し続けていますし、主治医の世代交代も4度目を目前にして、この小児眼科の記録が重要なのですが、肝心要の記録がない事に大変困惑し、

処分されて失われた記録を、少しでも正式な記録に近い文書を書き起こしたいと思っています。