君に、運命をあげよう。それは、人生が終わる日より前に、失明する日が来るということ。
但し、失明しない道を選び続けるという、賭けのゲームをするなら、その日は人生の終わりを越えるかも知れない。
さて、君はこのゲームを始めるか?
そんな提案をされたら、私はやると言うし、言ったから今がある。
私の両親は、紀伊半島の先端近くの出身である。結婚して上京し、
父は海外赴任を繰り返して仕事に邁進し、母は専業主婦と、当時の一般的な暮らしだろう。
そして子供ができ、母は里帰り出産を選び、産婦人科のあるA病院とB病院から、
A病院を選んで、第1子が産まれた。
それから2年半後、私の出産のため、母は長子を連れて里帰りをした。
前回と同じA病院に、妊婦健診に通い出す。しかし、妊娠後期にA病院が、経営破綻して倒産し、患者さんはB病院や他へ転院した。
この事が、私の運命をも変化させた。
B病院で、わたしはなんのトラブルもなく、ごく普通に出産され、普通の新生児として生まれた。
最初に私の様子に違和感を覚えたのは、産婆さんの手伝いをしたり四人の子育てと五人の孫を見てきた祖母だった。
祖母によると、新生児なのにやけに瞼が腫れているから、目の病気があるかもと、母に伝えたのが生後4日ころだった。
その言葉を受けて、産科医と小児科医に診察を受けた結果、緑内障の疑いがあり専門医の受診を勧めると言われた。
けれど一般の暮らしをする私たちに、子供の眼科専門医など、インターネットもない時代に、探すあても術もなかった。
そんな私たちに、B病院の小児科医が、一つの情報をくれたのだ。今この病院に、東京にある小児眼科のある私立大学病院の医師が、風土病の研究に来ているから、紹介状を書いてもらえるかも知れないから、依頼してみるか、という話をくれた。
母は急遽、父と連絡を取り、元々は都内に住んでいる事もあり、紹介状を書いていただく事にした。
そして、生後10日で私と母は紹介状を持ってB病院を退院し、14日目には都内の家にいた。
父は、紹介状以外に有力な候補はないのか、知り合いの医師に尋ねるも、あるにはあるが知識や技術に大差はないから、紹介状を活かす方が早期治療になると助言されて、私の治療生活が始まる。
こうして生後17日目、私と母は大学病院の小児眼科の加藤医師の診察を受け、当時は先天性緑内障と診断されたのである。