2月24日(水) 続き

 

広貫堂の資料館を後にして、ちょっと気になってた場所へ。

 

◇富山県富山市/富山城址公園

信長の時代には、佐々成政

江戸時代には、富山前田家

の居城だった富山城址です。

 

廃藩置県後払い下げられ、県庁舎が本丸には入っていました。

その後、解体や埋め立てなどで、当時の姿は残っていません。

 

現在復元されていますが、史実に基づいた復元ではないそうです。

残念。

車をとめて少しお散歩…と思いましたが、整備工事中で近い駐車場がなく断念しました。

写真は車窓から。

 

 

夫はずっと運転してくれていましたし、

朝から私が行きたい場所へ付き合ってくれていたので・・・

「とりあえず海と魚のあるところ」へ!!

 

せっかくなのでここからは日本海沿いを走ることにしました。

 

富山市内から20分ほど車を走らせて到着したのは、江戸時代の面影を残す岩瀬。

ここは北前船の交易地として栄えた町です。
現在、伝統的建築を生かした町並みで散策が楽しいエリアとなっています。

 

 

◇富山県富山市/富山港展望台

富山港、立山連峰を一望できる展望台

入場無料、駐車場あり。

と聞けば、とりあえす行ってみるしかない。

 

ということで来たのですが、

エレベーターでてっぺんまで!

とはいきませんでした。

階段でコツコツ登ります。

船堀タワーの方がレベル高いな・・・。


建物は琴平神社の常夜燈を模した形になっています。
常夜燈は当時灯台の役割も担っていたため、そこからアイデアをもらったとのこと。

 

360度、展望はよかったです。

ただなんていうか、特に騒ぎ立てる程見るべきものは特にないかな。

立山連峰くらい。

まぁ旅の途中にお時間があれば、寄ってみてください。

 

 

◇富山県富山市/北前船廻船問屋「森家」

展望台のすぐ近くにあります。

せっかくなので寄ってみました。

 

森家北前船廻船問屋として富を得た豪商の家屋です。

東本願寺を作った棟梁が手がけたとされ、国指定重要文化財になっています。

 

私の地元は北前船の寄港地でもあり、資料館もあったため、昔から聞きなれた言葉ではありました。

とはいえ、日本の海運史については詳しくありませんでした。

 

今回森家でボランティアの解説員の方がお話してくださっているのを聞いて、

そうか、北前船の問屋はそんなにお金持ちだったのか(。-`ω-)と思いました。

 

森家は岩瀬のお金持ち第三位。

第一位は森家のお隣、同じ廻船問屋の馬場家。

 

森家も一般の方から見たら結構な富裕層でしたが、馬場家は・・・

 

昭和10年の高額納税者ランキング(全国所得税納税者番付)には

横綱 三菱財閥の岩崎氏(42.5万)

大関 三井財閥の三井氏(32.6万)

前頭 松下幸之助氏(8.8万)

同 馬場家(5.5万)と、そうそうたるメンバーと名前を連ねています。

 

日本海で活躍した北前船は、岩瀬ではバイ船(倍々になるから)と呼ばれ、

幕末から明治にかけて東岩瀬港は最盛期でした。

 

森家は代々、四十物(あいもの)屋仙右衛門と称し、明治以降は苗字を森としました。

建物は明治11年に建てられたものです。

 

森家の玄関(東側)は、街道(加賀藩の官道)であった岩瀬大町通り沿いに面しています。

その西側、つまり森家の奥側は神通川の川港に面していました。

 

現在家の裏側は道路になっていますが、展示されていた昔の写真をみると、「裏庭をでるとそこは川港だった」という感じでした。

埋め立てられたんでしょうね。

 

森家、馬場家をはじめとした廻船・肥料・北洋漁業で活躍した旧家は、この街道ぞいに軒を連ねていました。

ちなみに馬場家はお隣さん。

 

入館料100円/一人で、色々お話も聞けて、かなりお得でした。

 

◇北前船について

江戸幕府 3代目将軍 家光の時代に、幕府は鎖国政策をとり、

唯一長崎の出島で中国船とオランダ船だけが入港を許されていました。

 

この鎖国時代に、国内の定期航路の廻船(港から港へ人や荷を運ぶ船)が発展していきます。

 

それまでは荷主である商人自身が船を所有・運行し、自らリスクを負って交易をおこなっていました。

しかし廻船の登場で、荷主と海運業の分離が進みます。

 

大阪~江戸間(太平洋経由)を結んだのは、

菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船で代表される賃積み(商品を預かって運ぶ)の廻船です。

 

北海道~日本海側~大阪(日本海と瀬戸内海経由)の西廻り航路を結んだのが、

買積み(船主が商品を買ってそれを売買する)の廻船である北前船でした。

 

ちなみにこの西廻り航路の生みの親(航路は以前からあったのでその便利さを知らしめた)は、加賀藩三代藩主 前田利常公です。

 

(加賀藩は蔵米を大坂に運ぶために、敦賀で船荷を陸揚げし、陸路と琵琶湖の水運を経て大津、京都、大坂へと運んでいました。

利常公はそれを日本海から下関をぐるっとまわって瀬戸内海を経由して大阪へと運ぶルートに変え、その有利さを証明しました。)

 

またこの西廻り航路で、江戸初期から交易をしていたのは、

蝦夷地交易のための松前藩による場所請負制に進出した近江商人でした。

したがって、「北前船は当初近江商人が主導権を握っていたが、のちに船主が主体となる」と表現されていたりします。

 

(蝦夷にあった松前藩はお米が育たないため、幕府からアイヌとの交易権を与えられていました。

そして扶持米を支給できない松前藩は、上級藩士に区画割りしたアイヌとの交易権を与えます。

これを「商い場所」といい、通常は単に「場所」と呼びます。

近江商人は場所持ちの藩士に契約金を払い、場所の総ての権利を掌握しました。(場所請負制度)

商人達はアイヌの人々に網漁などを教え、18世紀半ばにはニシン、イワシなどの漁獲高を飛躍的に伸ばします。

アイヌから搾取に近いかたちで海産物を手に入れ、大阪の蔵屋敷に販売を委託。

帰り船はその売上で藩の必需品を積み込み蔵物(藩主直領の産物)の集荷から運送・販売までの総ての商行為を独占しましした。

のちに蝦夷が天領となるため、近江商人のこの商いは衰退します。)

 

当時使われた船は弁才船(べんざいせん)と呼ばれる、近世のスタンダードな日本の大型木材帆船です。

横帆1枚の単純な帆装にもかかわらず、帆と舵の巧みな操作で横風や逆風でも帆走が可能でした。

 

北前船は、1年1航海です。

大阪を起点に江差を終点とする取引ルートを運航していました。

 

(江差には箱館戦争で座礁した開陽丸の資料館を見に行ったことがあります。

ついでに鰊も食べて帰りましたが、北前船の資料館とかにも寄ってもよかったなー。)

 

大阪から北海道へ向かう「下り荷」には

大阪で仕入れる酒、衣料、たばこ、瀬戸内で仕入れる塩、砂糖、蝋、東北で仕入れる米などがありました。

北海道から大阪へ向かう「上り荷」

鰊(肥料や食料)、数の子、昆布、〆粕などです。

 

上り下りとも荷は積んでいましたが、上り荷のほうが圧倒的に儲けられたようです。

 

北前船は流通が未発達だったがために発生する生産地と消費地の価格差を利用し、

商品を遠隔地に運んで販売することで利益を得ていました。

 

江戸後期~明治前半に最盛期をむかえ、その後衰退していきます。

 

理由は蒸気船との競合、通信や鉄道運輸網の発展による遠隔地間の価格差の縮小、

北海道の鰊漁の縮小、西日本の綿作・藍作の衰退(輸入品に代替)などです。

 

北前船船主は経営の転換を求められました。

北海道商業への特化、遠洋漁業、地主になるもの、銀行業や資本家など…。

 

 

ちなみに、この北前船、富山の薬売りとも深く絡んできます。

 

富山売薬は、鎖国時代にもかかわらず、薬の原料となるジャコウや牛黄(ごおう)などの漢方薬を北前船を通じて(中国→長崎→大阪→富山)手に入れられる輸入ルートを持っていました。

また北前船を使い、販売ルートも拡大していったのです。

 

そして、富山売薬について書いたときに薩摩藩との関係性にも少しふれましたが、

財政再建中の薩摩藩が、富山売薬「薩摩組」を通して手に入れた昆布、あれもこの北前船のおかげといえます。

昆布は、当時中国ではとれず、不老長寿の食べ物として珍重されていました。

 

ところで、長州藩の下関も北前船の寄港地として「西の浪速」と言われる程、繁栄しました。

 

明治維新を推し進めた薩摩と長州、彼らが九州や本州の端っこから中央政府に攻め入る資金源の一部は北前船がもたらしたといえるのでしょう。

 

 

◆北前船廻船問屋「森家」

 

 

北前船の廻船問屋らしく、各地から取り寄せられたものを建築資材に使っています。

そして、げんを担いだものが多いです。

 

 

 

 

森家は一度火災にあい、証文を全て失いました。

つまり貸していたお金を回収できませんでした。

そこでこの家を再建した折、東京の錠前屋に耐火金庫を作ってもらっています。

しかも茶室の隠し金庫として。

 

 

 

ちなみにこちらが馬場家。

 

 

岩瀬をあとにしたら、日本海にそって北上。

あいにく天気は雪模様。

美しい日本海は楽しめなさそうです。

が、道中に点在する道の駅によってテンションを上げていきたいと思います。

 

◇道の駅ウェーブパークなめりかわ

ここには「タラソピア」や「ほたるいかミュージアム」が併設されています。

が、タラソピアは閉館中。

とりあえず車を降りたら、夫は海の様子を見に行きました。

 

 

ほたるいかミュージアムは季節外れの為、生体のホタルイカの展示なし。

(親切なことに、シーズンオフは入館料が少し安くなっていました)

 

夫「生のホタルイカがいないなら、興味がない」

・・・ですよねw

 

ホタルイカの沖漬けだけ買って、次へ。

 

◇海の駅蜃気楼

魚津港は蜃気楼の名所です。

魚津の蜃気楼は3月下旬から6月に現れるそうです・・・が。

外は雪が吹雪き、海は荒れています。

 

これは見られるわけがない。

この道の駅の近くには、蜃気楼のウォッチングポイントもありましたが、無念。

 

何より道の駅が休館日で無念。


◇道の駅うなづき

黒部峡谷に寄り添う宇奈月温泉。

トロッコ列車が走る季節が一番オススメです。(冬の間は運休)

 

その宇奈月の道の駅に到着。

外はもはや完全なる吹雪。

そして、ここも休館日(涙)

 

なんなんだ(怒)

今日は、

ランチしようと思ったところも休業日。

お団子食べようと思ったところも休業日。

高岡ラムネを買おうと思った老舗のお店も休業日。

あっちこっちも休業日っヾ(。`Д´。)ノ

 

どうせ私はいっつも休業日とか休館日とか修復中とかにあたるんだよっ(つД`)ノ

むしろ、これまでの旅でオールオッケーだったことはなかっただろうな・・・。

 

◇富山県黒部市/宇奈月温泉
本日のお宿は「ホテル桃源」。

館内はリフォームされていてきれいでしたし、温泉も広かったです。

食事も美味しかった。

食事処の方も気のきく方でしたし、社員教育も地方の旅館にしてはしっかりしている感じがします。

 

外が吹雪いていなければ、温泉街を散策♪とかできたでしょうが。

あきらめて、お部屋から雪景色を楽しみました。

 

<つづく>