第93回「サルバトール・ムンディ」と「悲しみの人」はどちらが先か? | レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋~最後の晩餐にご招待

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レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の謎解き・解釈ブログです。
2021年5月末から再度見直して連載更新中です。

レオナルド・ダ・ヴィンの「サルバトール・ムンディ」

サンドロ・ボッティチェリの「悲しみの人」

 

 

2枚とも、イエス・キリストに見せつつ、

別の顔はヨハネ黙示録12章に登場する女から産まれた

「鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者」

という考察を第86回、第92回でしてきました。

 

彼らが互いのを知らずに、偶然描いていたとは思えませんでした。

 

レオナルドが先に描いて、それを見てボッティチェリが描いたか?

ボッティチェリが先に描いて、それを見てレオナルドが描いたか?

 

どちらなのか?

 

「サルバトール・ムンディ」の回に入ってからも、そこが悩みどころでした。

再度、初期から振り返ってみたら、何か違ったものがみえるかもしれないと思って、

87回から流れを整理してみたところ、違ったものがみえて幸運でもありましたが

どちらが先なのかは、92回を投稿した後もまだ迷っていました。

 

不明なままで進めるしかないかと諦めかけていたところ、

記事別アクセス数で2009年の古い記事が、いくつか上位にあがっていて

その古い記事をみて、決断できました。

 

 

 

  レオナルドの動機

1500年にミラノからフィレンツェに戻ってきたレオナルドが、ボッティチェリの「神秘の降誕」を見ていたと考えるのは、カルトンの「聖アンナと聖母子」「糸車の聖母」は、イエス・キリストが再び天から来るという意味を示すものを模索していたとみえるからでした。

 

 

「糸車の聖母」は、幼子イエスが十字架にかかる未来をみているようですが、これは十字架にみえて実は糸車の棒です。回転する糸車の棒を持つ人差し指から、「十字架にかかっても天から再び来る」と再臨を感じさせるものでした。

 

「サルバトールムンディ」も、よくある普通のテーマに見せながら、十字架のついていない透明な球にヒントを込めていたと考えます。

 

ただ、それらを描いたレオナルドの動機は何だったのか?

 

ボッティチェリと同じく、当時をヨハネ黙示録の時と信じ、救い主が来ると信じていたからか?

それとも、ボッティチェリを唸らせるような、裏の意味を持つ仕掛けのものを描いてみせたかったからか?

 

 

 

  ボッティチェリの動機

サヴォナローラが預言者のごとく台頭するも、1498年に処刑されました。

混乱の時代、やがてヨハネ黙示録12章に記されているとおりになると信じていたボッティチェリでしたが、サヴォナローラの処刑が尾を引いていたのだと思います。

 

 

たとえ「鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者」が来られても、愚かな人々の誹謗、憎悪によって、十字架にかかる運命もついて廻るのだと、悟っていったのだと思います。

 

後世に名付けられたタイトル通り、当時においても人々には、「Man of Sorrows(悲しみの人)」としかみられない作品ですが、レオナルドだけは違います。

 

「神秘の降誕」を見せ、それがヨハネ黙示録12章に関するものだと理解していたレオナルドならば、「12人の天使の輪」を共通項として、これが「鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者」だと気づくであろうと考えたのだと思います。

 

 


目をふさぐ天使たちと、まっすぐに鑑賞者を見る男の視線に、

ボッティチェリの想いが込められていると感じます。

 

 

鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者も、

愚かな人々の妬みによって捉えられ、

いずれ十字架につけられるのだろう。

私は12章のごとくになることを願ったが、

その人が十字架につく姿は見たくはないのだ。

 

 

「悲しみの人」は、自身の「神秘の降誕」から、「糸車の聖母」「サルバトール・ムンディ」など黙示録の「すべての国民を治めるべき者」を展開してきたレオナルドへの「返し」だったと推察します。

 


 

 

第94回に続く