介護に競争原理を持ち込むのは本当に悪なのか? | 真夜中の伝道(死にたくなったら読むブログ)

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昼の喧騒から離れ、夜に読んでほしいです。孤独な魂に、必ず聖書の言葉が届くと信じています。

昨日JTJの兼松先生の授業をDVDによりて聴講しておりましたら、兼松先生が「救いが明確ではないが、信仰だけがやたらと強い人」が教会を駄目にする。


と、そんなことを仰っておられました。


思わず私もなるほどと思いました。


私は現在教会には恵まれておりますが、職場ではそんなことを感ずることがたまにあったからでした。


(今はおかげさまでそういうこともなくなりましたが)


いわゆる民主主義批判でよく言われる「声の大きい」者が勝つという原理です。


これは「特養」でもよくあることなのです。


ある声の大きい人が「こうしなさいよ」といわれるのであるが、そのことを本当に入居者のかたが喜んでおられるのかはよくわからないのです。


しかも特養の場合はそのような本当に必要な声がよく聞こえない、状況にあるのです。


ただ、その人がアクが強くて、声が大きいからその意見が通るだけなのです。


その点介護保険については色々言われますが、この制度が持ち込んだ、競争原理はある意味介護現場を全うにさせるかもしれません。


(しかし特養はまだ駄目ですね。半官半民でやはりまだ他の施設と比べると低料金ですから。また別のシステムをどうにゅうして、有料老人ホームなんかも特養と同等の価格にして特養と競争させたほうがいいですね。)


介護がビジネスになったら、利用者をとにかく連れてこないと話が始まらないのです。


利用者のニーズに応えない施設も介護士もどんなに偉そうなことを言って、また、その言っていることが一応理にかなっていたとしても利用者がこなかったら、意味がありません。


結局その施設は競争に負けてつぶれます。


ガンガン競争になったら声が大きくても意味がないのです。


そんな職員は使い物にならないから即クビです。


人が思っているより、より多くの特養は腐っております。


(というのをよく聞きます。今日も聞きました。)


確かに人は金ではありません。


福祉とビジネスを同じ枠組みで考えるのはおかしいというのもよくわかります。


しかし競争原理がこれらの腐った特養をつぶすという、よき面も否めないと思います。