割礼の問題 | 真夜中の伝道(死にたくなったら読むブログ)

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昼の喧騒から離れ、夜に読んでほしいです。孤独な魂に、必ず聖書の言葉が届くと信じています。

「しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。」

(聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2章3節)








割礼の問題について少し考えます。




割礼とは男性の性器の亀頭を覆っている部分を切開することです。また、これはユダヤ人たちの一番古い父祖であるアブラハムという人のときにできた、神様との契約の印なのです。(創世記9章9節から14節)




そしてその当時はイエス様を信じても割礼を受けなくてはいけないと考える人たちと、いや、イエス様を信じるだけで神の子となれるのだと考える人たちと、二通りの人達がいたわけなのです。




今の私達から見ると大変馬鹿げた問題に思え、またそんな問題で大の大人がよく争ったものだとあきれるようにも思えますが、実はこの問題は今でも引き続き継続して、キリスト教会の中でも起こっているわけなのです。





つまり私達は行いによって救われるのか、それとも、信仰によってすくわれるのか、と言う問題なのです。




例えば、今日の朝のブログにエホバの証人のことを書かせていただきましたが、彼等は、信じるだけで救われるとは考えない訳です。それに見合った行いを要求してきます。




勿論、イエス様を信じ、聖霊が私達の中で働き出すと、私達の行いも変わってきますし、もし、変らないのならば、それは本当に信じていないということにもなります。





ただ、信仰が先であって、行いはあとなんですね。




この順番の問題というのは信仰の真理をきちんと捉えるためには非常に大切な要素なのです。




だから、パウロは割礼の問題をないがしろにしなかったのですね。





愛するイエス様、イエス様にある兄弟姉妹の方々、このブログを読んでくださった方々、ありがとうございます。感謝します。