私達が見下している人達の中に私達の心を解放する真理が隠されていることがよくあるものである。
(だから、私の生き方の中に心の解放があるかもしれないですよ。今生きていて幸せなはずなのに、何故か心が少しもスッキリしない人たちはぜひ私のブログを読んでくださいね。見下しながらでも)
それに比べて私達の尊敬している人達というのは、その人達への単なる尊敬ならばいいのであるが、往々にして、いつの間にかその尊敬がその人たちへの崇拝にかわっていることがよくあるものなのである。
そうなるとその人達自身がいつの間にか私達の神様になっているのである。
すると私達はその人達の生き方をもそのまま真似しようとするので、私達らしさが少しも出せず、それゆえ、その彼らへの尊敬は私達の心を少しも解放しない場合が多いのだ。