昔、ニーチェという哲学者がいて、彼は、「私はダンスする神のみを信ずる」といったらしい。
ニーチェの時代に独裁者にたてつくのは恐ろしいことであったが、キリスト教にたてつくのなんてだれにだってできた。
しかし彼はそんな中途半端な人間ではなかった。かれは本気であった。
彼は本気でキリストの言葉の裏を見抜こうとした。
だから結局彼は気が狂ってしまった。
彼はキリスト教を破壊しようとしていながら、しかし、自分自身がキリスト教を何よりも追い求めていたことに、とうとう気づくことが出来なかった。
悲劇といえば悲劇なことだ。
なぜなら、「ダンスする神」、これこそまさに、キリストの神ではないか!
キリストの神はリズムである。
そしてこのリズムを私たちの生活に取り入れることを私たちはクリスチャンになるという。
こんな単純なことに、どうして彼ほどの天才が気づけなかったのだろう。
それとも天才であったから、気づけなかったのか。
そしてこの真理に比べれば、洗礼も、聖餐式も、教会生活も、それらは二の次の真理にすぎない。
オツムを空っぽにしてキリストの神と踊り明かす。
キリスト者にとって、聖なる生活とはそういうものなのである。