ご訪問くださり、本当にありがとうございます。


霊や生命について書かれています。


ですから、興味がわかなかったり、読んでいて不愉快になられるのなら、迷わずにスルーされて下さいね。


あなたの大切なお時間を無駄にしたくありません。

 

 

今回の記事はとても長いです。

 

進化した魂から見た地上の人間の"苦しみ"に対する観方です。

 

所要時間=15~18分程 です。

ご関心があればお時間のある時にでも、ゆっくりとお読みになられて下さい。

 

 

ここのブログは、ワクワク・キラキラ なスピリチュアル とは縁遠い霊言を元に構成しています。

 

また、思考とか考え方を "こう変える" みたいな 有難い指南 なども一切ありません。 

 

ここ約170年の間に地上にもたらされた、霊の世界の諸先輩からのメッセージを淡々と伝えるだけのブログです。

 

つまらなくてすみません。

 

 

 

以下は全て【ハンネン・スワッファー・ホームサークル(英国 1930~1981)】の交霊会における霊団の支配霊シルバーバーチの霊言です。

 

 

以下より抜粋・編集しました。

 

シルバー・バーチの霊訓

 (六) 十章 「あらためて基本的真理を」
 (六)十一章 「みんな永遠の旅の仲間」

 

 

 

 

(上記の続きです)

 

 

◆は交霊会メンバやゲストの発言。

 

↓が支配霊シルバーバーチの発言。

 

《  》 内の記述は私が追記しました。

原著の体裁を編集しています。

 

 

 

(始)

 


ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で、

 

 "実存主義" についての議論が戦わされたことがあった。

 

出現したシルバーバーチがこう述べた。(※1)

 

 

<シルバーバーチ霊>

ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました。

 


◆私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。

いえ、ちゃんと的を射ておられます。

 

みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。

 

ですが、みなさんも人間である以上、各自に歩調というものがあります。

 

進化とは絶え間ない成長過程です。

 

成長は永遠に続くものであり、

 

しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません

 

各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません


それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、

 

直面する困難を媒体として、

 

その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。

 

それを自分でやらねばならないのです。

 

他人からいくら知恵の援助を受けることができても、

 

魂の成長と開発と発達は、

 

あくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。


真理は永遠不滅です。

 

しかも無限の側面があります。


なのに人間は、自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。

 

そこから誤りが始まります。

 

全体などではありません。

 

進化するにつれて理解力が増し、

 

他の側面を受け入れる用意ができるのです。

 

生命活動とは、断え間なく広がりゆく永遠の開発過程のことです。

 

真理の探究は無限に続きます。

 

あなた方はそちらの地上において、

 

私はこちらの世界《=霊界のさらに上層界》において、

 

真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、

 

他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、

 

究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。


不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、

 

当然の結果として、それまで手にすることのできなかった高度の真理を受け入れることができるようになります。

 

人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。

 

神の顕現が無限であるからには、

 

神の真理に近づく道にもまた無限のバリエーションがあることになります。

 

お分かりでしょうか。

 

 

◆分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか。

その通りです。

 

直接的なものと迂回的なものとがあります。

 

が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。

 

直接的な道が歩めるようになるまでは、

 

それが直接的な道であることが読み取れません。

 

環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。

 

全生命は自然法則によって規制されています。

 

その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、

 

あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。

 

かくして、いかなる体験も、

 

これがあなたの住む地上であろうと、

 

私の住む霊界であろうと、

 

ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。

 

偶然にそうなっているのではありません。

 

奇跡でもありません。

 

あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。

 

そうでないといけないでしょう。

 

つねに原因と結果の法則によって織りなされているのです。

 

 

◆環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか。

それは一体どういう意味でしょうか。

 

 

◆もしかしたら私は明日だれかの行為によって災難に遭うかも知れません。

そうかも知れません。

 

が、それによって苦しい思いをするか否かは

 

あなたの進化の程度の問題です

 

 

◆でも、その他人がそのような行為に出なかったら、私は災難に遭わずに済みます。

あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、

 

魂の視点からでなく肉体の視点、

 

言いかえれば、いま物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます。

 

 

◆それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか。

そうです。

 

それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば、苦しい思いをしなくなります。

 

苦は進化と相関関係にあります。


楽しみと苦しみは両極です。

 

同じ棒の両端です。

 

愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。

 

愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。

 

同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。

 

あなたの体験の "質" を決定づけるのは、あなたの進化の "程度" です

 

ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。


愛のみを抱くようになります。

 

苦を感じず、幸せばかりを感じるようになります。

 

難しいことですが、しかし真実です。

 

苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。

 

 

◆他人のために災難に遭うということもありませんか。

たとえば、イエスは他人のために災難を受けました。

あなたは先ほど他人の行為によって、自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。

他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。

それは無視してもよいのでしょうか。

そしてそれは良いことなのでしょうか。

少しずつ深みに入ってきましたね。

 

でも思い切って足を踏み入れてみましょう。

 

円熟した魂とは、人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。

 

苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。

 

 

底まで下りずして頂上へは上がれません。

 

 

それ以外に霊的修練の道はないのです。

 

 


あなたみずから苦しみ、

 

あなたみずから艱難辛苦を味わい、

 

人生の暗黒面に属することのすべてに通じてはじめて進化が得られるのです。

 

進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。


さて、苦しみとは一体なんでしょうか。

 

苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃、

 

または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。

 

 

が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、

 

その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、

 

(他人の苦しみを見て、あるいは他人の行為によって自身に降りかかる災難について)

 

少しも苦しみは覚えません

 

なぜなら、

 

各人が置かれる環境は、

 

関係している人々の

 

その時点における進化の程度が生み出す結果である、

 

と得心しているから です。

 

進化した魂は、

《↑宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを得心している魂》

 

同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、

 

苦痛は覚えません。

 

 

 

◆そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした。

要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。

 

十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。

 

また、すべきではありません。

 

 

◆バイブルには、イエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります。

バイブルには事実でないことが沢山述べられています。

 

いかなる人間も自分以外の者のために代って苦しみを受けることはできません

 

自分の成長を管理するのは、自分一人しかいない、

 

他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。

 

贖罪(しょくざい)説は、神学者が時代の要請にしたがって、でっち上げた教説の一つです。

 

自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負って、

 

それ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。

 

そうやって教訓を学ぶのです。

 

もしも誰かほかの者が背負ってあげることができるとしたら、

 

過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 

苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、

 

こうしたものがみな魂の成長の糧(かて)となるのです。

 

そうしたものを体験し、教訓を学んではじめて成長するのです。

 

その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、

 

その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。

 

"まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん"(マタイ6・33)

 

というのは真実です。

 

その心掛けになり切れば、

 

つまり宇宙の摂理に不動の、

 

そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、

 

人生で挫折することはありません。

 

なぜならば、その信念が内部の霊力を湧き出させ、

 

何ごとも成就させずにはおかないからです。

 

その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは "心配" の念です。

 

全幅の信頼心・・・盲目的な信仰ではなく、

 

知識を土台とした完全なる信念は、

 

人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。

 

神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、

 

そこに憩うことを忘れないかぎり、

 

自分を焼きつくす火も、吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです。

 

 

◆すばらしいことです。

本当にそうなのです。本当にそうなのです。

 

物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。

 

魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。

 

しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。

 

人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。

 

地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。

 

そこで私たちの出番が必要となります。

 

すなわち霊的真理の光をお見せするのです。

 

ナザレのイエスが "神の御国は汝自身の中にある" と述べたのは、

 

寓話ではなく事実を述べたのです。

 

神は全生命の中心です。

 

宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。

 

地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。

 

あなた方もミニチュアの神なのです。

 

あなた方の心がけ次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。

 

その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。

 

他の誰も代わってあげることはできません。

 

それが地上生活の目的なのです。

 

自分も神であることを自覚なさることです。

 

そうすれば神の御国(摂理)は、

 

ほかならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。

 

それは絶対に裏切ることがありません。

 

無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、

 

何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。

 

といって必要以上のものはいただけません。

 

魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、

 

それより多くも、それより少なくも、

 

それより程度の高いものも低いものも受けません。

 

それ以外にありようがないのです。

 

 

◆神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか。

時にはそういうこともなさいます。


その人物の力量次第です。

 

もっとも、神が直接干渉なさるのではありません。

 

 

◆神学には "先行恩寵" という教義があります。
(苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと・・・訳者)

ありますね。

 

神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です。(※2)

 

時にはそういうこともあることは事実です。

 

が、神といえども、

 

本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません

 

それは各個の魂の進化の問題です

 

私がそういう法則をこしらえたわけではありません。

 

法則がそうなっていることを私が知ったということです。


みなさんもいつかは死ななくてはなりません。


霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。

 

地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、

 

霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。

 

要は視点の違いです。

 

私たちは永遠の霊的観点から眺め、

 

あなた方は地上的な束(つか)の間の観点から眺めておられます。

 

 

 

ここでサークルの二人のメンバーが、

身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、

シルバーバーチはこう述べた。

 

 

<シルバーバーチ霊>

霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります

 

が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。

 

私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。

 

私とて、すべてを知っているわけではないからです。

 

あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

 

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。

 

知識の総計と較べれば微々たるものです。

 

が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見てきております。

 

数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。

 

そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、

 

神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、

 

その摂理が完全なる愛から生まれ、

 

完全なる愛によって管理され維持されていることを、

 

ますます思い知らされるばかりなのです。

 

私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。

 

まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。

 

理解出来るのはほんの僅かです。

 

しかし、私に明かされたその僅(わず)かな一部だけでも、

 

神の摂理が完全なる愛によって計画され、

 

運営されていることを得心するには十分です。


私は自分にこう言い聞かせているのです。

 

「今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。

 

もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

 

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、

 

もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、

 

まだ見ていないもの、

 

あるいはまだ理解できずにいるものもまた、

 

完全なる愛の証であるに違いない」

 

・・・と。


ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、

 

どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。

 

私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。

 

私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。

 

無限なる宇宙のほんの僅(わず)かな側面しか見ていないこの私に

 

絶対的な断言がどうしてできましょう。

 

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目(かいもく)できません。

 

こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。

 

そこで私は、基本的な真理から出発して、まずそれを土台とし、

 

それでは手の届かないことに関しては、

 

それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。


基本的真理にしがみつくのです。

 

迷いの念の侵入を許してはなりません。

 

これだけは間違いない、と確信するものにしがみつき、

 

謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。

 

そこに漂う静寂と沈黙の中に、その時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。


常に上を見上げるのです。

 

うつ向いてはなりません。

 

うなだれる必要はどこにもありません。

 

あなたの歩む道に生じることの一つ一つが

 

あなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。

 

これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて、

 

神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。


さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。

 

私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。

 

お役に立つことならばどんなことでも厭(いと)わないことはお分かりいただけてると思います。

 

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、

 

ここにこうして集(つど)い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。

 

神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

 

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。

 

こうした心がけが、神の御心に適(かな)った生き方をする者にかならず与えられる祝福、

 

神の祝福を受けとめるに足る資格を培(つちか)ってくれるからです。

 

 

【訳者注】

 

本章は一見なんでもないことを述べているようで、

 

その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、

 

シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。

 

特に「私は自分にこう言い聞かせているのです」で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、

 

その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

 

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。

 

宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、

 

神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者は

 

おのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 

反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。

 

奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。

 

それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、

 

霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、

 

人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。

 

そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 

それはシルバーバーチが本章で述べている通り、

 

基本的真理にしがみつくことである。

 

われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、

 

地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、

 

人生体験には何一つ無駄なものはないこと、

 

ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 

本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値をあらためて認識させられる思いがしてうれしかった。

 

 

※1
霊媒のバーバネルが入神し、

シルバーバーチ霊が憑(かか)ってくると交霊会の開会となるが、

霊団はその前から準備しているので、

シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている。(訳者)

 


※2
英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、

弱き者への神の情けを表現する時によく引用される。(訳者)

 

 

(続く)

 

 

 

(ブログ管理者追記)

 

私の一個人の反応でしかありませんが、

 

この記事の霊言を読むたびに、

 

私はいつも言葉を失います。

 

遠く遥かな未来のいつの日にか、

 

ありとあらゆる暗黒を体験した後に

 

皆さんもそれぞれ相応しい時期に、

 

シルバーバーチ霊と同じ境地に達することでしょう。

 

頭の中であれこれ考えていても魂にとっては、何の生長も向上も望めません。

 

自ら体験する事でしかそれは得られないのです。

 

 

 

 

 

ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました