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霊や生命について書かれています。


ですから、興味がわかなかったり、読んでいて不愉快になられるのなら、迷わずにスルーされて下さいね。


あなたの大切なお時間を無駄にしたくありません。

 


 

以下は全て【ハンネン・スワッファー・ホームサークル(英国 1930~1981)】の交霊会における霊団の支配霊シルバーバーチの霊言です。


シルバー・バーチの霊訓(四)一章 「絶対不変の摂理」 より抜粋・編集しました。

 

 

 

 

 

 

「絶対不変の摂理 (3)」からの続きです。

 

 

《  》 内の記述は私が追記しました。

原著の体裁を編集しています。

 


(始)

 

 

人間が地上にあるのは、人格を形成するためです。

 

ふりかかる問題をどう処理して行くかがその人の性格を決定づけます。

 

が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、

 

一方、あなたという存在は大霊の一部であり、

 

神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません《※1》

 

 

心の平和は一つしかありません。

 

神と一体となった者にのみ訪れる平和、

 

神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、

 

魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。

 

そうなった時の安らぎこそ真の平和です。

 

神の摂理と調和するからです。

 

それ以外には平和はありません。

 

私にできることは摂理をお教えするだけです。

 

その昔、"神の御国は自分の心の中にある"、と説いた人《=ナザレ人イエス》がいました。

 

外にあるのではないのです。

 

有為転変の物質の世界に、神の国があるはずはありません。

 

魂の中に存在するのです。

 

神の摂理は精細をきわめ、完璧ですから、一切のごまかしが利きません。

 

悪の報いを免れることは絶対にできませんし、

 

善が報われずに終ることもありません。

 

ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。

 

より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。


地上の束の間のよろこびを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。

 

地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。

 

あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。

 

摂理を曲げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。


私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて 摂理の完璧さ を口にするはずです。

 

そのスピリットたちは、

 

二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません

 

ところが人間は、その面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。

 

そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。

 

最大の財産は霊の財産だからです。


どこまで向上しても、なお自分に満足出来ない人がいます。

 

そういうタイプの人は、霊の世界へきても満足しません。

 

不完全な自分に不満を覚えるのです。

 

神の道具として十分でないことを自覚するのです。

 

艱難辛苦(かんなんしんく)を通して、まだまだ魂に磨きをかけ、神性を発揮しなければならないことを認識するのです。


しなければならないことがあるのを自覚しながら、心の安らぎが得られるでしょうか。

 

地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、

 

神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実 《※2》 を前にして、

 

私どもが安閑としておれると思われますか。


光があるべきところに闇があり、


自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、

 

人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、

 

私どもが平気な顔をしていられると思われますか。


私どもがじっとしていられなくなるのは、哀れみの情に耐え切れなくなるからです。

 

霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に、

 

何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。

 

神は人間に必要不可欠なものはすべて用意して下さっています。

 

それが平等に行きわたっていないだけです。

《↑それは人間が自由意志を行使した結果であり、責任は人間側にある》

 

偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に、自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

 


私たちが地上の人間を指導するに当たって、いちばん辛く思うのは、

 

時としてあなた方が苦しむのを、敢えて傍観しなければならないことがあることです

 

本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、

 

側(はた)から手出しをしてはならないことがあるのです。


首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。

 

挫折すれば私たちの敗北でもあります。

 

いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。

 

それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。

 

私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。

 

でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。


それが摂理だからです。


その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。

 

しかし、本人みずからの力で解決すべき問題を、私が代って解決してあげることは許されないのです。

 

もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。


もしも私が、この霊媒(モーリス・バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、

 

一人間としての自由意志を奪うことになるのです。

 

その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害されはじめます。


霊性の発達は、各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。

 

物ごとがラクに順調に捗(はかど)るから発達するのではありません。

 

困難が伴うからこそ発達するのです。

 

が、そうした中にあって私たちにも干渉を許される場合が生じます。


万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ちいたった時は干渉します。

 

たとえば、この霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。

 

しかしそれが、霊媒個人の霊的進化に関わる問題であればそれを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。

 

 

 

《※1》

たとえば、"闘病" の末に死が訪れたとしても、霊界側ではそれを "克服出来なかった問題" とは、全く見做していません。

 

寿命というものも、神の摂理・法則 の一つです。

 

病気と "闘う" という表現がどうなのか……と思う事はありますが、

 

ご病気にずっと向き合い続けて来られて、立派にご寿命をお迎えになられたわけですから、死=負け…という事には全くなりませんし、

 

最期まで痛みや苦しみに耐え抜いたわけですから、魂・霊的には、立派な勝利だと言えます。

 

但し、それは、あくまで私個人の想いです。

 

 

 

《※2》

ここでは暗にキリスト教の訓えを指している。

 

 

(続く)

 

 

(ブログ管理者追記)

 

本文中の後半で ●印と●印 で挟まれている箇所の記述は、

 

守護、指導などの役目を担っている霊たち=スピリットガイド(spirit guides)が、

 

どのように 地上の人間の指導にあたっているかを説明してくれています。

 

よくスピリットガイドは、「自分を危険や災難から守ってくれる存在、幸せに導いてくれる存在」などと言われていますが、

 

"守る"という意味に大きな誤解もありますし、

 

幸せに導いてくれるという表現も言葉足らずです。

 

 

守護、指導すべき人間がその人生で耐え忍ぶべき試練にはちゃんと導いて下さいます。

 

それが誕生前に描いた青写真の中にある苦難であれば、相応しい危険や災難に遭遇するように、見守リ導いて下さいます。

 

そのどん底から人間自身が這い上がってくるための、必要な援助はしますが、手出しはしません。

 

手を出さない事が摂理でもあるし、また、手を出さずに人間側の苦しみに同調し、体験する事が、スピリットガイド自身のカルマ解消の目的の場合もあるからです。

 

 

こうして本人がその苦難・苦境から自身の努力で抜け出したその先で感じられるものが "幸せ" であるとするのなら、

 

スピリットガイドを、"幸せに導いてくれる存在" と言ってもよいかと思います。

 


 


ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました