箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 | 旅の途中で

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くもおじいじゃ!今日は何処に行ったがじゃ?

クラブハウスからぶらっと静岡、島田宿へ。ここは映画の撮影でも有名な蓬莱橋。世界一長い木造の橋だよ。

 

大井川にかかる蓬莱橋(ほうらいばし)は、全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋。現在も農道として利用されており、貴重な歴史的土地改良施設として県内外から多数の観光客が訪れている。国内でも数少ない賃取橋(ちんとりばし)として有名で、平成9年12月30日には「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてイギリスのギネス社に認定された。

 

 

く) ほう、ほう、蓬莱橋じゃな!知っているがじゃ、しぞーかじゃ有名な橋だらぁ。

 

く) ここに水戸黄門と助さん格さんが立って旅に出るシーンが目に浮かぶのぉ

 

大井川は、いまのように正確な地図や測量方法が確立されていないころ、京都を中心にした地域とそれよりも東側の地域を分けるために利用される河川だった。川幅が大きく、人の往来が極端に制限されるので、国防や交通の便からも都合がよかったからだ。

大井川の話のなかでも特徴的なのは、江戸時代のエピソード。江戸に幕府を開いた徳川家康は、自身が隠居する駿府(現在の静岡市)の外堀の役目として、敵軍の動きを防げる大井川を重要視した。なんと、橋を架けるどころか渡し舟を出すことも厳禁した。

そのため、一般庶民はおろか西側大名が参勤交代で江戸に馳せ参ずる際であっても、馬や人夫の手を借りて渡らなければならなかった。これを大井川の川越しと呼び、江戸時代には”東海道最大の難所”として知られるようになった。

殿様も箱根八里は馬で超すことが出来るが、大井川は馬では越せない難所だったんだ。

 

世界に知られる浮世絵師の歌川広重の代表作「東海道五十三次」の『島田宿』。当時の”川越し”の様子が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

難所と知られた大井川も明治になるとその状況は変化する。時の静岡藩主であった徳川家達(いえさと)が、志太・榛原地区への開墾を奨励したためだ。

1870年(明治3年)の4月、家達は視察に訪れた同地で、牧之原の開墾のために入植していた幕臣・中条金之助景昭に、現在の蓬莱橋がかかっている向こう岸を指さしながら

「開墾して農地とすることは宝の山を築くのと同じ。あそこの山は宝の山といってもいいだろう。みんなで協力して宝の山を切り拓いてくれ」と激励したことから、橋を命名する時に、宝の山=蓬莱山(中国の山)から蓬莱橋と付けたらしい。

 

この声を聞いて、金之助をはじめとした島田の人々は家達が指さした山「谷口原(やぐちはら)」の開墾を進めた。そして、農地としての利用が始まったときに、交通の便が悪かったことから橋を架けてほしいと、いまの島田市に要請したのだ。

市が許可をすると地元住民が中心となって工事は進められ、1879年(明治12年)に橋は完成する。難所とされ渡るのにも一苦労だった大井川に、晴れて農作業用の道具を携えた人が簡単に行き来できる橋が誕生した。

 

橋を渡り切ると「フォトフレーム」のような場所が。

ぜひ皆で行きましょう!