教えを信じない人に対する信者の攻撃的な姿勢がブログ投稿の動機となります。
巷では勧誘された人が、その秘密性に不気味に思い、ネットで質疑が起こります。
そうした情報が火だねとなり、被害の感情が酸素となって、メラメラと炎上しています。
一方、教団施設内では霊、因縁による私的論理に近い原因によって、信者の過去、現在、未来が意味付けられて、信者の人生観となります。
そうしたものが信じられることによって、当然、物事の認識が世間の人とはずれることになります。
教えを信じる、信じないの優劣、教えの為になる、ならないの善悪が植え付けられます。「善」とはその人の為になることであって、信者にとっては人を教えに結ぶことは善であり、「いずれ分かる」と無断入信でも、「良いお寺」と騙してでも人を入信させようとすることは善なのです。
しかし、それは世間の共通認識とはかけ離れた私的論理のため、信者が護磨の炎の如く燃え立って勧誘しようとすれば、嘘を人に強いなければならないのです。修行が進めば、真顔で嘘がつけるようになります。
そうした嘘がネットのコンテンツとなり、嘘の被害者の感情が酸素となってメラメラと炎上しているのです。