ネットで被害があるといわれ、被害は無いといわれ、様々な情報が交錯しています。
それは教えを信じる人は「被害では無い」というでしょうし、教えを信じない人は「被害がある」という場面があります。
元々思想信教の自由があるのですからそのような論議をしなくても良い気がします。
その原因は、この教えが勧誘第一義であり、個人を磨くためだけに修行ができない状況だからです。必ず誰かを勧誘しなければ救われないようになっているからです。
信者はある程度マインドコントロールが進んでくると、自分の不幸の原因が「教えに示される霊、因縁である」と意味づけられ、「この教えの取り組みでなければ救われない」と思わされます。すり込みです。
そして、教えを疑わないために「この有り難い教えに結ばれた、徳のある先祖から認められた選ばれた人」と思わされながら「救ってやる」という気持ち、あるいは藁をも掴む気持ちで勧誘ターゲットの不幸を観察し、勧誘の機会をうかがいます。
もう「教えを信じれば救われる。教えを信じなければ救われない。」という思考ですから、勧誘相手も「最高の教えに結ばれることが救われること」と勝手に判断して行動します。ここではもう思想信教の自由は置き去りにされ、信者の勧誘行動が強引に実践されると、「宗教の名の下ないがしろにされた人権侵害」が発生します。
特に親子関係、職場の上下関係など逆らえない力関係がよく利用されます。
人を救う、即ち勧誘することでしか救われない教えを信者が霊、因縁による恐怖心によって実践させられ続けるのですから、被害は繰り返すことになります。
同時に「密教だから」という言葉が使われ、秘密裡に遂行するように教化されていますので、教えに気づいた人を「堕ちた人」と表現したり、勧誘できない相手を「徳の低い人」あるいは「自分の修行が足りない」と思ったりしながら行動する信者による迷惑に「泣き寝入りしなければならない人」が現れます。
ネットが普及し、迷惑や被害を被った人々が遠くの人と情報交換ができる環境になっています。
同時に教え関係者からは、都合の悪い情報が流れるのを防ごうとするための情報が流れます。
「ひとたび気づけば何でも無い教え」を、マインドコントロール道場に誘い込むことで信じさせようとする力に対抗できるのは自分自身なのです。