熊本市は、明治以降“軍都”と呼ばれてきました。

“軍都”と呼ばれる由来は、旧帝国陸軍の第6師団が熊本に駐屯していたからです。

 

明治新政府は、明治4年に地方鎮撫と国土防衛部隊として鎮台を設置しました。日本の近代軍制の始まりです。

その後明治21年に部隊運用がより容易な師団編成に改変しますが、その際、それまで熊本鎮台と呼ばれていた部隊は第6師団に改変されることになりました。

その第6師団の中核部隊となったのが歩兵第13連隊でした。

歩兵第13連隊は、熊本、鹿児島、宮崎出身者から徴兵した兵により、明治8年に第25大隊を基幹に編成されました。

明治9年の神風連の乱や翌年の西南戦争など、明治政府への不満から起こった士族反乱を鎮圧する等、明治初期の国内動乱で活躍しました。

明治21年に第6師団が編成されると、基幹部隊としてその隷下に入り、明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争に出動しています。

その後も歩兵第13連隊は、常に大陸での戦いの最前線にあり、昭和3年の山東出兵、昭和6年の満州事変と歴戦を重ね、昭和12年の日中戦争では南京攻略戦に参加し南京大虐殺の汚名を着せられます。

こうして大陸での泥沼の戦いで常に前線部隊として戦い続け、昭和16年の太平洋戦争を迎えることになります。

ガダルカナル島を巡る戦いで日本軍の劣勢が色濃くなると、苦しくなる戦況の中にあって歩兵第13連隊は他の第6師団隷下部隊とともにソロモン諸島に派遣されます。昭和18年1月にラバウルに上陸、その後6月末にはブーゲンビル島を守備する第6師団本隊と別れてソロモン諸島のコロンバンガラ島の守備に就きます。

昭和18年2月にガダルカナル島から日本軍が撤退し、アメリカ軍の次の目標がニュージョージア島である事が予想されると同島のバイコラに上陸しムンダ飛行場を巡る戦いに参加しています。補給の途絶による食糧・弾薬の不足に苦しみながらも圧倒的な制空権と火力を擁するアメリカ軍に対して善戦します。ムンダ飛行場がアメリカ軍の手に落ちると9月に同島からブーゲンビル島に撤退し、第6師団本体と合流しその地の防衛の任に就きます。

同年、11月にアメリカ軍がブーゲンビル島に上陸を開始すると歩兵第13連隊は歩兵第23連隊とともに果敢に反撃を行いますが、圧倒的なアメリカ軍の火力と、同島の過酷な自然環境、そして無理な作戦が重なって緒戦において大損害を被ります。

第6師団は、1944年3月に再び第二次タロキナ作戦を行いますが、圧倒的なアメリカ軍の火力と峻険な地形、そして部隊の食糧・弾薬の欠乏から壊滅的な損害を受け、以降組織的な攻勢を取る事が出来なくなりました。

ブーゲンビル島の戦いの帰趨が決定した後は、食糧不足と熱帯性の病気等によって多くの戦没者を出しながらも、フィリピン戦を控えたアメリカ軍と交代したオーストラリア軍の攻撃を食い止める遅滞作戦を展開して昭和20年の敗戦を同地で迎えることになります。

同地の日本軍の損害は、総兵力65,000名の内、21,500名が戦死しましたが、戦死者の中の9,800名は餓死、もしくはマラリア、デング熱、チフス等の戦病死だったと言われています。

日本兵の間では、食糧の補給が続かず多くの餓死者を出したガダルカナル島が「餓島」と揶揄されたのと同様、多くの餓死者、戦病死者を出したブーゲンビル島は「墓島」と呼ばれていました。(戦時中、ブーゲンビル島は“ボーゲンビル島”と呼ばれていました。

 

その歩兵第13連隊の営門跡が熊本市中央区大江の地に残されています。向かって左側の門柱です。写真奥がかつての駐屯地になります。

 

 

右側の営門。。。

 

 

営門左側に連なる煉瓦塀も当時のままのモノであると思われます。

奥に見える建物は市営山ノ上団地です。

2年前にこの写真を撮影した頃までは残っていたのですが、老朽化の為に昨年取り壊され、現在は、熊本県民テレビの新社屋が建設中です。

 

 

営門のアップ画像。。。

戦後70年の風雨によってかなり傷みが進行しているようです。

熊本県民テレビの新社屋建設にあたって、この営門も撤去される予定でしたが保存運動が起こり、残される事が決まりました。

 

 

歩兵第13連隊営門全景。。。

奥が駐屯地でした。

まめ八の奥さんの祖父が若い頃、徴兵されて歩兵第13連隊にいたそうです。

この祖父から、厳しい訓練や、古参兵による過酷な新兵虐めについて色々な話を聴くことが出来ました。

その祖父も、既に鬼籍に入っています。

祖父の話では、この営門を出て南熊本駅まで行軍し、南熊本駅から北九州の門司港まで鉄道輸送されて中国大陸に渡ったそうです。東シナ海を渡り、長江を遡って南京攻略戦に参加する予定でしたが、途中病気に罹り、瀕死の状態で本国送還されて命拾いをしたそうです。

 

 

この営門から出征して行った兵士たちは、この営門に戻る日の事を日本からはるか離れたブーゲンビル島のジャングルの中で幾度想像したでしょうか?

この営門から出陣していった兵士たちの大部分が再び熊本に地に戻りこの営門をくぐる事が出来なかった事を思うと、何だかとても悲しい気持ちになります。

戦没者の方々に合掌。。。

 

この歩兵第13連隊営門跡地は、熊本学園大学付属高校の産業道路側出口にあたる場所になります。

この大江地区には戦前、第6師団隷下部隊が駐屯しており現在でも往時を偲ばせる戦争遺構が残されています。

これからも機会を見つけては遺構を巡り、このブログで紹介していきたいと思います。