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小さい頃、絵本が大好きでいろんな本を婆ちゃんに読んでもらった。
タイトルは忘れてしまったけどフランスの田園地帯みたいな片田舎のお昼間近に婆ちゃんがお昼ごはんの支度のために暖炉でスープを暖めている。庭では空から柔らかく降り注ぐ晩秋の太陽の陽を浴びながらメンドリがのんびりと餌をつついている。
僕の牧歌はそんなイメージ。小さな頃は母や祖母の愛に守られて悩みとか確執、嫉妬、不安、不満、といった負の感情、そんなものは微塵もなく、おおらかに、おおらかに、空気は安らぎで満たされていた。
僕にとって牧歌的な小野リサ:インパネの娘
でも、成長による自立にともなって、どうしてもそういった負の感情は避けられなくなる。中学の時に何を思い悩んでいたかは忘れたけど、あの、牧歌的なイメージで心地よく過ごしていたいのに、何で、今、こんな厄介事を抱えこんでいるんだろう?こんなこと、今ので最後にしたいな、そんなノンキなこと思ってた。
自我が確立してくると、理想と現実は、必ずしも、いや、大概において一致しないということが分かってくる。そんなで上手く折り合っていかないと!って意識が変化してくると、牧歌なんて言っていられなくなる。幻想だったんだなと。
いつからか、ギャップを抱えていることが当たり前、それから開放されることなんてあり得ないって思うようになって、むしろ楽になった。感性が鈍化して、柔軟になって、ちょっとしたことでは動じなくなった。10代の時によく聞いた布袋寅泰のソロシングルの歌詞にあった「きっと孤独とも愛し合える」みたいに。
諦めではなく、理解としてギャップを受け入れられるようになると楽になる。つまり、ギャップを何とかしたいと思う気持ちは持ちつつも少し距離を置いて保留しているような状態を許す。希望の執行猶予。ひょっとしたらチャンスがやって来て、自分が成長して、幸運にもクリアできるかもしれない。或いはずーっと死ぬまで無理かもしれない。それはそれで仕方のないことだ。
今、息子たちは、かつて僕が感じたのと同じような牧歌を感じているに違いない。そんな幸福を見守ることは僕の重要な役割だし、そんな彼らを見守ることができている僕はとっても幸福だ。でも今後、彼らにも確実に牧歌的やすらかさと、さよならする時がやって来る。その時は七転び八起きで上手く適応してくれたらと思う。あと、ギャップを縮めるための勇気は持ち続けていて欲しい、そんなふうにも思う。
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