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マトリョーシカ人形とはwikiによると胴体の部分で上下に分割でき、中には少し小さい人形が入っている。これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。社会において人が所属するグループも家族、会社、業界、趣味、サークル、ボランティア、地域組織、宗教、民族、国家、等々と多種多様なグループが存在し、大小関係で含んでいたり含まれていたりする。
どうしてマトリョーシカ人形なのかというとアドラーの嫌われる勇気って本に、現状に行き詰まったら、今の枠よりもっと大きな枠で考えてみたらいい、みたいなことが書かれていて妙に心に響いてしまって、まるでマトリョーシカ人形だなって思ったから。
例えば会社で上司の言っていることと自分の考えが一致しない、ひょっとしたら自分が間違っているのかもしれないし、正しいのかもしれない。そういう時は、上司と自分という関係から抜けだして、年の若い同僚、ベテランの先輩、別の会社にいる同じ職業の友人、全く職業の異なる友人、妻、親と、一番中心の小さな人形から外側の大きな人形まで多様な立場から意見を集めて、それを過去によって形成された自分の思いと照らしあわせて考えることで客観となり、パワーによらない議論のベースになる。
また、小さな内側の世界から大きな外側の世界に飛び出した人というと、近鉄バッファローズから大リーグに移って活躍した野茂が思い浮かぶ。球団や監督のワケの分かんないメンツとか拝金みたいなことにホトホト嫌気がさして大リーグに飛び出した。その結果、年俸が1/10以下になってしまったそうだ。さらに無謀、恩知らず、追放とかバッシングされていた(野茂にもプライドを超えてしまっている奢りは多少あったのだろうけど)。そんな逆風の中で一年目から結果を出し、日本球界をギャフンと言わしてしまった。マスコミも手のひらを返すように日本のフィールドは野茂には狭すぎた、みたいなことになってしまった。こういう人をサムライと言うのだろう。格好良すぎる。
狭い世界での中傷が広い世界で称賛に変わることがある。
ハンパない疎外、孤独そして労苦を乗り越えて。
コンサルタントの石原明さんは人が外に出ようとする時、もとの場所にいる人は、なんで出て行くの?今の場所ほど素晴らしいところなんてないでしょ!みたいなことで留まらせようとするもので、このことを納豆の法則と言っていた。確かに自分がいる場所を人が出て行く、遠回しに自分が否定されているようで気分のいいものではない。さらに人が出て行くことによって、それまでかけた教育的投資が無になるみたいなことで、もとの場所にいる人の評価が下がってしまったりすると尚更のことである。
郷に入ったら郷に従えは正しい考えだ、基本的に。ただ、あまりにも卑屈だったり、そこにいると自分が失われてしまうと強く感じた場合は、外側からの見識を得て判断すると楽になることがある。その結果、自分が至ってなかったと判断したのならば謙虚に自ら歩み寄ればいいし、逆に自分に問題がなくても可能な限り我慢、我慢、我慢だけど、客観的な異常に対してホント限界であれば、その場を去るか、戦ったらいい。戦った結果、そこを去ることになったとしても、それは自分にとって貴重な経験になる。僕は戦わなければいけない時に怯えて何も出来ず事態を悪化させてしまったことがある。戦わなかったばかりかヘラヘラ笑って耐えていた自分が情けなく思い出される。卑屈は時として放っておくとナイフのような狂気にだってなる。年を重ねて分かったけど人は野垂れ死んでも構わないって覚悟できると、なんでもできるし、強くなれる。つまらないことに執着しなくなるから。汚なさには毅然とした態度が取れるし、自分が汚なければ素直に頭を下げることが出来る。その一方、現状キープが最優先になってしまうと、こういうことが難しくなり、どうしても小ざかしくなってしまう。
ストーンズの戦いがテーマのSympathy for the Devil
僕の大好きな村上春樹さんの「風の歌を聴け」に次のような一節がある。
完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
完璧な絶望、そんなのないって、つくづく思う。やってみてダメなら仕方ない。でも、どんなにダメだって生きていく方法は無限にある。下積み芸人のしたたかな暮らしみたいに。一見、格好悪いけど、マトリョーシカ人形の一番外側の大きな世界から見たら以外に格好良い生き方に映るのかもしれない。
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