ブログネタ:2011年3月11日なにしてた? 参加中本文はここから
2011年3月11日は仕事をしていました。
当時は千葉県F市の実家に住んでいて、東京都大田区の大型倉庫施設まで通っていました。
まだ結婚する前でした。
職場は東京モノレールを使って通勤していました。
当時、毎週金曜は14時~15時まで営業会議でした。
14時46分には営業部6人(男性4人、女性2人)で会議室にいました。
揺れだしたので会議室のテーブルの下に入りました。
ゆれがおさまる前に「パテーションがひっくり返りそうだ」と誰かが言い出して男性陣は会議室の外に行ってしまいました。
30人程度の会社だったのですが、その後は社長命令で「まず全員まとまっていること」ということで社内にいました。
集合倉庫施設なので、通常のビルよりは頑丈にできているので、むしろ外に出ないようにという通達でした。
ちょっと離れた宿直部屋にあったテレビを事務所にもってきて、全員でニュースをみました。
当分帰れそうも無いことに気づきました。
総務の人が、即効で最寄のコンビニに行って、カップラーメンやサンドイッチ、おにぎりを買いこんできました。
人数分の二食分くらいを買い込んできてくれました。グッジョブでした。
飲料はもともと会社で箱買いしていたので、そちらをつかいました。
運よく停電はしませんでした。
やることが無いので、ひとしきり心が落ち着いたらデスクに向かって仕事していました。
年度末ですし、いつでも時間内には終らないような業務量だったので、やることはありました。
余震もあったので仕事でもしているほうが記が休まりました。
ただ、ネットも電話も回線がパンクしたようで使えませんでした。
夕方になって、男性陣は電車が止まっていても家族が心配で帰る方が多かったです。
東京モノレールが動かないので、女性陣と都内以外に在住者は全員泊まることにしました。
ただし、当時は職場がかなりギスギスしていて、まとまってお泊りはしましたがほとんど誰とも会話せず、という孤独な状況でした。
幸いダンボールはたくさんあったので、ダンボールを敷いてコートやひざ掛けにしていたブランケットをかけて横になりました。
会話が無いのだから寝ようと思いましたが、余震がひどくて眠れませんでした。
私の実家は(去年取り壊して建替え中ですが)当時は築80年の木造住宅で、母と私の二人暮らしでした。
この日は、実家の母が関西に旅行に行っていて、家自体がつぶれていないか、火事にでもなっていないか、ずいぶん心配な夜をすごしました。
夫とは当時まだ結婚していなかったので、夫は夫の実家に帰るためにたいへんだったようです。
私と逆で、千葉県内で仕事をしていて都内在住だったので、通勤距離はけっこうありました。
私と夫はツイッターでつながっていましたので、わりとスムーズに連絡がとれました。
ちょうどこの二週間くらい週間モーニング連載中の「ギャングース」で震災当時の話になり「ツイッターだけはつながってる!」って話をやっていて懐かしかったです。
翌朝は、モノレールがまず動き、山手線と京浜東北線が「動く見込み」という情報を得て、一番部隊で帰ることにしました。
6時半ごろには会社を出ました。
とにかく、築80年の我が家が心配だったのです。
持病があって薬の予備が無い人と、その人に付き添わされた人と、私の三人だけ帰りました。
他の女性陣は「もうちょっと落ち着いてから帰る」と言ってました。11時ごろまで会社にいたようです。
結局山手・京浜東北はしばらく動きそうも無く、地下鉄を乗り継ぎ、自宅の最寄駅にはたどりつけなかったですが割と近くの東陽高速鉄道の駅から家まで1時間くらい歩いてなんとか家につきました。
結局10時過ぎになっていたでしょうか。
家は倒壊しておらず、無事でした。
家の中もけっこう普通でした。
止まっていたガスを開通させたり、家中みまわって、ほっとして居間でテレビをつけたら、原発爆発のニュース・・・
前夜も人はいるけど独りという状況、家に帰っても独り、泣きました。
本当に怖かった・・・
母はその日の夜帰ってきましたが、怖い目にあってないのでのん気でした。
夕食などどうしたか、細かいことは覚えていません。
東北で実際に被害にあった方の怖い目に比べたら、大したこと無いかもしれません。
でも私にとってもトラウマ的になっている恐ろしい一日でした。