応無所住 而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)。
まさに住する所なくして、その心を生ずべし。
英語では "Let the mind arise without abiding anywhere." と訳される。『金剛経』第十品「荘厳浄土分」にある一節で、仏陀が須菩提に説かれた言葉だという。

「わたしは今、何にとどまっているのか」。そう問うた瞬間、握りしめていたものが少しずつ見え始める。

何の覚悟も欲もなく、ただ記録し学ぶ者として気楽に出かけたのに、突然、無防備のまま何かを代表し、立場を代弁する席を与えられたとき。終わらせなければならない仕事に、ちゃんとできているのかという不安に、心はとどまっていた。

小さな言い間違いと早とちりを思い出しては、布団の中で悶えた日だった。
欲はなかったのに、そんな席へ押し出された日だった。

次はもっとうまくやろう、二度とあんな無防備な失敗はすまい。過去の教訓がいつしか執着になり、認められなければ、という心が固まっていく…

もう学ぶことだけにとどまってはいられない。アウトプットし、表現し、伝えていく立場に立ったのだと実感する。

心は少女のままなのに、魔法にかけられて、鏡の前では白髪の少女になってしまった。『ハウルの動く城』のソフィーのようだ。


文章は書いても口は開かず、挨拶はしても遠くから聞いているだけでいたい日々。語るべき方々、教えを伝えるべき方々が大勢いらっしゃるのに、身に余ることに、口を開かねばならない場面が増えてきた。

また、言葉が遅くなり始めた。
考えは多いのに、出力エラーを起こした機械のようだ。何にとどまっているのか、考えにも優先順位と頻出度をつけて整理したい。


四十五個の球を回し続けるロト抽選機のように、ただ回してばかりいる。韓国語が下手なのではなく、考えをまとめるのに時間がかかりすぎるのだ。

無念とは、考えをなくすことではなく、考えに引きずられないことだという。


今、心に何が浮かんでも「ああ、これがあるのだな」と一度眺めるだけで十分な夜なのかもしれないのに…

気づけば、もう朝の五時を過ぎていた。
気づきとは、無理に押しのけることではなく、ただ照らすことだという。

鏡が塵を憎まないように、浮かんだ心を憎む必要もない。「これがあるのだな」と眺めるその場所は、すでにその思いより少しだけ広い場所だ。
怒りを見つめる心は怒りではなく、不安に気づく心は不安ではないように。

転がり続ける心も、それを眺める心も、そのまま置いておくことにする。

應無所住 而生其心。
まさに住する所なくして、その心を生ずべし。
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