書評・時論

『親日派―売国と愛国の韓国史』を読みながら 売国と愛国の八十年、そして共に歩むために自ら考えるということ

小野容照 著 · 中公新書2903 · 中央公論新社 · 2026年4月 · 256頁


1987年(昭和62年)生まれだ。今の韓流がMZ世代の日常に自然と溶け込んでいるとすれば、私が子どもの頃はその逆だった。日本の文化が先だった。そんな世代が、小野容照の本を読みながら浮かんだ考えをここに記す。書評であり、時論でもある。小野の分析を出発点に、ハンナ・アーレントを経由して論じる。

 

一.

政治が閉ざした扉を、文化が静かに開けていた

父の信念が息子に受け継がれないことがある。1993年、慰安婦問題において日本軍の関与と強制性を公式に認めた「河野談話」を発表した政治家の息子が、同じ自民党の中でまったく異なる歴史認識を示している。政治の言葉は、世代を越えなかった。

しかし政治エリートの流れとはまったく逆のことが、街中で起きている。

 

日本のゆとり世代(1980年代生まれ)とさとり世代(1990年代生まれ)は、韓国のミレニアル世代とZ世代にあたる。彼らは韓流を日常として受け入れている。K-ドラマ、K-POP、韓国料理、韓国語。漢陽大学平和研究所の研究によれば、日本のZ世代において韓国の大衆文化への好感が、韓国という国そのものへの好感につながる現象が確認された。

 

韓国のMZ世代も同様だ。2019年のNO JAPAN不買運動が最も盛んだったときでさえ、韓国の20代の日本への非好感度は全世代平均より20ポイント低かった。不買運動の熱気の中でも日本旅行に出かけ、日本食を食べ、J-POPを聴いていた。2023年にはJ-POPが初めて国内音楽チャートの上位に入った。政治が閉ざした扉を、文化が静かに開けていた。

 

2019年7月初旬、NO JAPAN不買運動が韓国社会で急速に広がり始めた。直接の契機は、日本政府が2019年7月1日に発表し、7月4日から実施した対韓輸出管理強化措置であった。韓国社会はこれを、2018年の韓国大法院による強制動員賠償判決に対する日本の経済的報復として受け止めた。

 

その間隙のなかで、名もない若者たちがラベルなしにお互いを出会っている。この逆説が私を小野の本へ、そしてハンナ・アーレントへと導いた。


二.

小野容照が問うこと、そしてアーレント

2005年春、高麗大学のキャンパスで仁村・金性洙の銅像撤去を求める示威を目撃した日本人大学院生の胸に生まれた疑問が、この本の出発点になった。約20年後に本を出した小野容照は、中央日報とのインタビューでこう語っている。

出典:中央日報「“李完用、単なる売国奴ではない”…日本の歴史学者が掘り下げた親日派」『日本の歴史学者が再照明した親日派の実体』、www.joongang.co.kr。

「日本人に、韓国で『親日派』という概念がどのように生まれ、その意味がどのように変化してきたかを説明したかった。」
―小野容照、中央日報インタビュー、ユ・ソンウン記者、2026.05.13 

九州大学准教授(朝鮮近代史)である小野の中心的な問いは簡潔だ。

「一見すると明確な利益が見出せない問題に、なぜ韓国は1945年の『解放』から80年にわたって莫大な労力を割いてきたのだろうか。」
―小野容照『親日派』中公新書2903 中央公論新社公式紹介文より

まず概念を整理しておく必要がある。本書で扱う「親日派(チニルパ)」は、日本語で日常的に使われる「日本が好きな人」という意味とはまったく異なる。植民地支配下で日本帝国に協力した朝鮮人エリート層を指し、この言葉には強い道徳的烙印が伴う。小野はインタビューでこの点を直接指摘した。

「韓国の政界で『親日』という言葉が登場すると、日本人は『韓国はいまだに反日感情が強く、かつて日本に協力した人々をいまも攻撃している』という風に誤解しているケースが多い。」
―小野容照、中央日報インタビュー、2026.05.13

この言語的なずれが、日韓の議論を最初からすれ違わせてきた原因のひとつだ。

小野の核心的な診断は簡潔だ。清算が終わらない理由は、清算が目的ではなく手段だったからだ。李承晩・朴正煕・全斗煥と続いた権威主義政権(1948〜1987年)は、親日派出身の官僚や軍人を国家運営の中枢に起用しながら、清算の議論そのものを抑圧した。本書はこう記している。

「李承晩は権威主義体制を構築する過程で、警察はもちろん政府の要職にも対日協力者を積極的に起用した。」
―小野容照『親日派』第2章

民主化後の保守政権である李明博・朴槿恵(2008〜2017年)は、抑圧の代わりに希釈を選んだ。ニューライト史観を打ち出したり韓国史教科書の国定化を推進したりしながら、清算の必要性そのものを曖昧にした。一方、金大中・盧武鉉・文在寅と続いた進歩政権(1998〜2008年、2017〜2022年)は、親日清算を積極的に議題化したが、清算を求め続ける状態を維持することが政治的に有利だったため、実際には終わらせようとしなかった。どちらも清算を完結させなかった。

 

1948年に反民特委が発足したが、行政の空白を埋める人材なしには新しい国家が機能しなかった。清算は制度にならないまま政治言語として残った。本書はこの失敗の意味をこう記している。

「反民族行為処罰法は現実においてまともに機能しなかった。これがその後60年にわたって韓国社会を苦しめる『清算されない歴史』の出発点となった。」
―小野容照『親日派』第2章

小野はこの構造の本質をこう診断する。

「2008年以降、韓国では親日派問題がなかなか決着のつかない保守派と進歩派の政治的対立の側面が強まった。親日清算は『政争の具』となってしまった。」
―小野容照『親日派』第4章
「親日派問題と対日歴史問題はなぜ解決しにくいのか。その根源は、『親日派』という用語そのものが進歩派と保守派というラベルと強く結びついて使われてきた点にある。」
―小野容照『親日派』おわりに

これは韓国批判ではない。脱植民地国家が普遍的に直面する構造的ジレンマでもある。

画像:ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)

ここでハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の話をしたい。アーレントは1961年、アイヒマン裁判を傍聴して衝撃を受けた。彼が怪物だったからではなかった。驚くほど平凡だったからだ。彼はただ考えなかった。命令に従い、規則を適用し、自分が何をしているのかを自ら問うことをやめた。アーレントはこれを「悪の凡庸さ(Banality of Evil)」と呼んだ。その核心に「思考の欠如(Thoughtlessness)」、つまり自ら判断することを放棄することがあると言った。

 

「親日」「反日」という言葉が具体的な状況から切り離されて道徳的なラベルとして固まるとき、実際に誰が何をしたのかを問わずに相手を素早く分類する貼り紙になる。その瞬間、判断は止まる。アーレントの言葉でいえば「判断の停止(Cessation of Judgment)」だ。

ただしアイヒマンと親日派を同列に置こうとしているわけではない。行為の性格と重さはまったく異なる。本書はこう記している。

「独立運動の高揚とともに、非協力がすなわち『罪』となる時代が到来した。大多数の朝鮮人は生き残るためにある程度の協力を強いられた。」
―小野容照『親日派』第1章

ここで借りるのは一つだけ、ラベルが判断の代わりになるとき、私たちはもはや考えなくなるということだ。

 

「親日」という言葉は特に、まったく異なる二つの状況を同時に指しているという点で問題が深い。一つは、国権を奪われた状態での協力だ。これが歴史の裁くべき「親日」だ。しかしアーレントなら、この裁きにも精密さが必要だと言うだろう。暴力と威圧のもとでの協力、生存のための協力、自発的な加担は同じ重さを持たない。小野もインタビューで慎重に認めた。「当時の親日派の思考を、単純に二分法で裁断するのは難しい面がある。」

 

もう一つは、今のように両国が対等な主権を持った状態で、共通の利益のために協力することだ。中国の海洋膨張とサラミ戦術に対応するため韓国と日本が協力することを、植民地時代の「親日」と同じ言語で批判するのは概念の混同だ。NATO諸国がロシアに対抗して手を組むことを「親露」と呼ばないように。

この二つを同じ言葉でひとまとめにする瞬間、現在の安全保障協力の議論は歴史的感情の中に沈む。それがまさに、判断がラベルに取って代わられる瞬間だ。


三.

怒りは正当だった

私の曾祖父は佐世保の鉱山で管理職として働き、祖父はその街で学校に通った。その世代の物語を抱えてこの本を読んだ。曾祖父の生涯を「親日」と呼ぶべきなのか。私はその判断をいまもできずにいる。

しかし一つだけ明らかなことがある。親日清算を求める感情の根は、イデオロギーではなく不公平さへの怒りだ。

独立運動家たちは全財産を失い、投獄され、異国で生涯を終えた。解放後、その子孫たちは手ぶらで新しい国を迎えた。一方、日帝統治下で土地を増やし官職を重ねた協力者たちは、解放後もその資産と人脈をそのまま維持した。「独立運動をすれば3代が没落し、親日をすれば3代が栄える」という言葉が誇張ではないことを、現実が証明した。

 

この怒りを法的に解消する機会が1948年にあった。反民特委は悪名高い親日派たちを逮捕し、活動を開始した。しかし1949年6月、親日警察が反民特委の事務所を襲撃し、公訴時効は短縮された。実刑を受けた親日派はわずか7名で、そのほとんどが再審で釈放された。清算の最初の機会は、そうして消えた。

 

これは李承晩が悪人だったというだけではない。冷戦と朝鮮戦争という状況の中で、清算より体制維持が優先された。その選択が80年の負債を生んだ。

 

1965年の日韓請求権協定で得た資金、無償3億ドルと有償2億ドル。韓国国家記録院の資料によれば、この資金はポスコ建設に約1億2千万ドルが投じられ、小陽江ダムや京釜高速道路など韓国の産業化の基盤を作った。日本との妥協で得た資金が経済成長の土台になったという事実が、歴史的清算を経済的正当性の問題と絡み合わせた。

怒りは正当だった。しかしその怒りが政治に取り込まれ、別のものになった。


四.

謝罪の温度差

 

アーレントの枠組みで日韓関係を見ると、謝罪の問題も違って読める。

 

日本は謝罪した。1993年の河野談話、1995年の村山談話。しかしその謝罪は、次の閣僚の発言で薄められた。公式謝罪と公式否定が同じ政府の中で交互に現れた。SBSファクトチェックの分析によれば、首相級の謝罪発言と歴史歪曲発言が同時に出るパターンが繰り返された。

 

2015年の安倍談話では、謝罪は現在形ではなく過去形で表現された。「わが国は、先の大戦における行動について、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してまいりました。」今謝罪するのではなく、過去に表明してきたと表現することで、責任の現在性が薄められた。

 

謝罪をめぐる認識の温度差

論点 日本側の認識 韓国側の期待
謝罪の性格 外交的遺憾表明、一回性 ドイツ式の持続的・制度的反省
謝罪の主体 政府声明レベル 国家が構造的に責任を認めること
終結時点 1965年協定で法的に解決済み 被害者が納得するまで未完
歴史教育 侵略・加害の記述を縮小する傾向 次世代にも伝えられることを期待
謝罪の継続性 談話継承後に閣僚の妄言が繰り返す 一貫した制度的反省

ドイツと比べると差が鮮明になる。1970年、ヴィリー・ブラント西独首相はワルシャワでユダヤ人追悼碑の前に膝をついた。ドイツはホロコーストの否定を法律で処罰する。日本がこの方式の謝罪を構造的に行いにくい理由がある。戦前と戦後の支配階級が継続したからだ。謝罪がすなわち自らの政治的基盤を否定する行為になる構造の中で、河野洋平のような人物は例外的な存在だった。その例外は息子の世代では繰り返されなかった。

 

アーレントの言葉で読めば、日本は謝罪したと思い、韓国は謝罪を受け取っていないと感じるこの乖離は、どちらかの悪意から来るものではない。両国が「責任」という概念に期待するものが構造的に異なることから生じる。そしてその乖離を自ら考えずラベルに委ねるとき、政治がその空間を埋める。


五.

誤読の危険、そして小野がこの本を書いた理由

 

ここで一つ確認しておきたいことがある。

小野の分析、そして私がアーレントを経由して論じたこれらすべては、日本への免罪ではない。同時に、韓国のすべての清算要求を政治攻勢に還元するものでもない。

 

韓国の親日清算が政治カードに変質したということと、日本の植民地支配が歴史的事実であるということは、別の問題だ。清算の政治化を批判することが、被害の歴史を消す論拠にはなれない。小野自身もインタビューでこの点を明確にした。彼は親日派問題を政治的対立の道具として利用することが望ましくないと言ったのであって、親日協力の歴史そのものを否定したわけではない。

 

小野は怒りの根を否定しない。彼が問うのは、その怒りがどのように使われてきたかだ。それがこの本が不快でありながらも重要な理由だ。


六.

私たちの世代が日本とともに歩みたい理由

 

私は植民地を直接経験していない世代だ。その記憶を受け継いだが、直接所有してはいない。1987年(昭和62年)に生まれた韓国人研究者として、私にとって「親日派」は教科書の中の歴史的人物でもあり、現在の政治言説で絶えず呼び出されるラベルでもあった。これは個人的な告白というより、この世代が共有する二重の感覚だ。

 

私はドラゴンボール、スラムダンク、ドラえもんを見て育った。高校生のときは木村拓哉から小栗旬、KAT-TUN、山Pが出るドラマを見て、モーニング娘。と浜崎あゆみの歌を聴いた。日本サッカー代表チームのキャプテンだった中田英寿が好きで、彼が引退後に日本酒の事業と日本酒文化の普及に乗り出したことがきっかけで、私も自然と日本酒の世界に入ることになった。

その中田が1997年フランスワールドカップ アジア最終予選で韓国と対戦した映像がある。

 

[動画:中田英寿 韓国の英雄ホン・ミョンボに恐怖を与える強さ 日韓戦 山口素弘のスーパーゴール フランスワールドカップ アジア最終予選 1997 サッカー football]

 

[動画:2025 中田英寿と朴智星、それぞれ自国チームの解説者として登場]

誰かにそれが親日かと問われたら、何と答えればいいかわからない。それはただの私の青春だった。

 

韓国のMZ世代と日本のゆとり・さとり世代が今やっていることもそうだ。お互いのドラマを見て、お互いの音楽を聴き、お互いの街を歩く。政治的宣言ではなく、ただの日常だ。そしてその日常が政治より先に動いている。

 

しかし、暮らしが政治より先に動くからといって、政治が自然とついてくるわけではない。河野洋平の信念が息子の世代で制度にならなかったように、この世代の文化的なつながりも、政治の言語に翻訳されなければ次の世代には伝わらない。人は経験によって親しくなるが、次の世代が受け継ぐのは経験ではなく制度だ。今、日韓の若い世代がお互いの音楽を聴き、食を分かち合いながら積み重ねてきた親しみは、共同声明となり、条約となり、教科書の一行とならない限り、それを生き抜いた世代とともに葬られる。


七.

判断の基盤として——GSOMIAから先へ

 

以下は、小野の分析を出発点としながら、筆者が独自に展開した時論である。

小野の本自体が日韓安全保障協力を主張するものではない。

 

日韓GSOMIA(軍事情報包括保護協定)は2016年に締結され、2019年に一度終了が宣言され、2023年に完全正常化された。この協定の歴史そのものが日韓関係の縮図だ。必要性は分かっていながら、政治的コストが高すぎて動けない。その繰り返しだ。

2026年6月、李在明大統領は就任1周年記者会見でこう語った。

「軍需支援協定の問題も、韓国国民は『何の話だ』と思っている。私が見るに、現実的な必要性はある。しかしそれは現実的な必要性に過ぎず、国民の情緒上、現在これを受け入れることは難しい。」そして付け加えた。「こういう話を公開の場でしたら、私は叱られる。」
―李在明大統領、就任1周年記者会見、2026年6月8日

これは本音だ。そしてこの本音の中に、韓国社会が直面している構造的な矛盾が凝縮されている。安全保障上の必要性は理解している。しかし「親日」というラベルが貼られた瞬間、議論は止まる。アーレントの言う「判断の停止」が、現実の政策決定を縛っている。

 

この発言は韓国だけの話ではない。日本の側にも、解けていない宿題がある。韓国が「親日」フレームを脱する言語を作らなければならないとすれば、日本は謝罪を繰り返すほどになぜ信頼が積み上がらないのかを、自ら問わなければならない。河野洋平の信念が息子の世代で制度にならなかったように、政治指導者の個人的な言葉が国家の制度的言語に翻訳されなければ、韓国国内で協力を説明する根拠は生まれない。

 

それでも、構造はすでに両国を結びつけている。2026年6月7日、済州島東南方の公海上で韓国海軍と日本海上自衛隊が9年ぶりに捜索救難訓練(SAREX)を再開した。人道的名目の訓練だったが、参加艦艇は訓練直後にアメリカ・ハワイへ移動し、31カ国が参加する環太平洋訓練(RIMPAC)に合流した。日韓二国間からインド太平洋多国間へとつながる連結環が、すでに静かに実行されている。

 

ここで必要なのは、感情ではなく言語だ。

韓国には、植民地期の「親日」と主権国家間の安全保障協力を同じ言葉で括ることをやめる言語が必要だ。日本には、謝罪を繰り返すことではなく、その謝罪が制度として定着する言語が必要だ。どちらも相手に一方的に求められるものではない。共に作り上げなければならないものだ。

 

小野容照の本は、その言語を作るための素材を提供している。韓国社会が「親日」という問題を政治カードとして使い続けてきた構造を直視しなければ、日韓の軍事・政治協力は常に感情の波に飲み込まれる。小野の分析が構造を示したとすれば、この小論はその構造の中でどう動くかを問うものだ。

 

アーレントは言った。政治とは、異なる人々が共に語り行動することだ。その共同の行動の前提として、共有された言語がいる。過去を消すのではなく、過去を語れる言語を持つこと。その言語を作る作業が、日韓両社会にとって今最も必要な知的基盤だと、この小論は言いたい。

 

容易ではないと知りながらも選択すること。ラベルではなく具体的な相手を見ること。判断を諦めないこと。それがこの世代の役割だ。

 

* 本文については、AI翻訳ツールを使用したうえで、韓日・日韓の相互チェックを完了しています。