Your children are not your children.

They are the sons and daughters of Life's longing for itself.
They come through you but not from you.
...
You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.

— Kahlil Gibran, "The Prophet" (1923), "On Children" より

今日、心理カウンセリングでうちの家族のあだ名をつける時間があった。

たいていは親がよく口にする言葉や仕草から名前が出てくる。うちの名前は子どもがつけた。パソコン家族。

理由は、ずっとパソコンをしているから。子どもが描いた絵をしばらく眺めた。リビングの机の上にパソコンが二台、並んで。一緒に勉強しようと置いた机なのに、そこから本が出てきたことは一度もない。


最初はどきりとした。モニター越しに子どもと目を合わせた時間がどれくらいあっただろうと思って。通勤がなく家で働いて研究する人間だから、外に勤めるお母さんたちより子どもと言葉を交わし、面倒を見る時間が多いはずだと、だからうちの子は情緒的に安定していると思い込んでいた。同じ空間にいる時間を、一緒にいる時間として数えていたわけだ。


ところが絵をもう一度見ると、机は二台だった。子どももその中にいた。最近この子はスマホでゲームをしない。代わりにプロンプトを組んで自分のゲームを作り、友だちを呼んでテストさせる。どこかで見て覚えたのだろう。

いまは世の中を知ろうとすれば、紙よりモニターに答えを求める。仕事も勉強も全部その中で起きる。問題は、それが外から見分けられないということだ。


本は何を読んでいるか見えるのに、画面は仕事でも勉強でも座っている姿が同じだ。子どもの目には、勉強している人ではなく何かに捕らわれている人に見えただろう。

昔の私の勉強は、やらされる勉強だった。やめることもできなくて、自分の人生が自分の味方ではないように思えた時期もあった。

いまは違う。世の中の動きに何か引っかかるものがあれば、自分から掘り下げる。疾風怒濤が過ぎたあとの秋のようなもの。


遅れて身についたわりに、これはもう中毒に近い。学ぶことの恐ろしさはそういうところにある気がする。持って生まれた才能はその場にじっとしているのに、学んだものは後から人を引っ張っていく。

だから子どもが見たのは、パソコンの前に捕らわれた人ではなく、ずっと何かを稼働させている人だったはずだ。

ただ一つだけ変えようと思う。仕事を減らすほうではなく、一日に顔を上げる回数を増やすほうへ。今日の夕方は画面を閉じて、子どもが作ったゲームのテストやお絵かきに、もう少し耳を傾けた。


子どもの空白と私の空白を一緒に埋めていくのは、なかなか難しい。難しい理由はたぶん、同じ通路で埋めようとしているからだ。子どもの分は家で顔を上げる回数で、私の分は外で人に会うことで。

夫は出張が多く船で過ごす仕事なので、できるだけ内側で問題を作らず、表に出さないことがお互いへの配慮だと思ってきた。

考えてみれば、外の人は私を知っているのに、私の夫はいまの私についてどれくらい知っているだろう。知ったほうがいいのだろうか。私だってあの人の仕事をよく知らないのに。耳を傾けても、工学部の講義に座った文系の聴講生のような気分とでも言おうか。

互いの知識は広げられても、互いの空白を埋められる相手ではないのだから、一つで二つを間に合わせようとしないだけでも、少しは申し訳なさが減るだろうか。子どもが少しは楽になるだろうか。

二十時間以上稼働している暮らしで、しばらくスイッチを下ろすことにも勇気がいるのだと、今日知った。


人生のすべての領域が、まんべんなく丸く回ることはあるのだろうか。私たちは外に飛び出したものはあれほど警戒しながら、内側で膿んでいく欠落はあまり手当てしない。