「椰子の実」

  島崎藤村 作詩  

  大中寅二 作曲

 

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
 
旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる 
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
 
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙
 
思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

 

 

 

 

島崎藤村
筑摩県馬籠村(後の長野県西筑摩郡神坂村、現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。 生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。 父正樹、母ぬいの間の末子。 明治14年、9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。

藤村記念館ホームページより

 

 

「明治31年、後の民俗学者で当時は東京帝大の学生であった柳田国男(1875~1962年)が伊良湖岬でひと夏を過ごした。日課の海岸散歩で、いくつも漂着したヤシの実を見つけた。昭和27年の論考「海上の道」で昔を回想している。

伊良湖から帰京した柳田は友人で詩人の島崎藤村に、体験を語って聞かせた。藤村はイメージを膨らませて数年の後「椰子(やし)の実」を発表する。「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」で始まる詩に昭和11年、曲がつけられた。ゆったりとした旋律は国民的な歌謡となった。

柳田は、はるかな波路を越えてこんな浜辺まで渡ってきていることが大きな驚きであったと記している。」
産経新聞の記事より

 





大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月29日 - 1982年(昭和57年)4月19日[1])は日本の作曲家、オルガニスト。
教会オルガニストを59年にわたって務め、礼拝用のリードオルガン曲や賛美歌などの教会音楽を多く作曲している。また、1936年(昭和11年)に作曲されNHK国民歌謡として放送された歌曲「椰子の実」(詞・島崎藤村)は一般にも広く知られている。
ウィキペディアより




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 深尾多恵子