1991年か1992年夏、輪島への旅
社会人になって2年目か3年目の夏の事だから、24歳か25歳の時の話だ。
1990年か、1991年。
私は、能登半島の旅に行きました。
昨日夜からずっと、その際に輪島で泊った民宿がどこだったか、せめてあの大火災の外であってほしいと思いながら映像とグーグルマップとを、なんども比較していました。
結局、よくわかっていない。ただ、今は、輪島の夕暮れと宵とだけを。
当時は当然、撮像素子(デジタルフォト)などはないので、撮影した紙の写真を先ほどスマホで再撮影したものをポストしています。
一日目は羽田から富山空港について、氷見経由で路線バスを乗り継いで、汗だくになって(しかし若かったから全く気にもやまず)七尾市の小さなホテルに泊まったけれど、二日目は、輪島市の民宿に予約していた。路線バスが、街に近づいていく。
市内に着いて、当時はGPSも無いから紙の地図を見ながらうろうろしていたら、前から日傘をさした私の母位の世代のおばさまが歩いてきて、「今日、お泊りになる方ですか?」と、やさしく訊ねてくれた(その民宿はどの通りだっただろうか。グーグルで見てもそれらしい宿はない。。もう引退済だろうか、むしろそうならよいのだが)
客商売には大変なことはいつもあるもので、この日、団体がキャンセルになったそうで、私の貸し切りだとのことだった。旅の過程では人とのかかわりを最小にしたい私にはありがたい偶然だったが、宿にとっては大変だっただろう。
チェックインして、街を歩く、まずは一応、定番の朝市(という名の、日中もやってた通り)へ。(ここは、どうなったのだろう)
輪島市にきて、僕は衝撃的な発見をして、この街が、心の中の理想都市になった。
私は生涯の最初の23年間は広島市に住んだが、こぎれいな町ではあるけれどもさすがに大工業都市なので、海は(特に当時)臭いがあり、岸辺はきれいではなかった。都市というのはそういうものだと思っていた。
だから、この輪島市にきて、びっくりした。港に出てくると、なんと、突堤からすぐ、きらきらと輝く透明な海になっていたのであった。
更にそこから歩いて、街の海辺に突き出た小山を越えると、そこは市民の皆さんの憩いの場所なのだった。
海に岩礁が続いており、そこで、市民の皆さんはゆったりと、海と夕日とが一体となった時間とを、楽しまれていた。きちんと市街地があって、その隣にこのような場所があり、そして海が美しい。。。心に刻み込まれたのだった。
宿に戻り、お風呂に入って、女将さんが部屋に夕飯をもってきてくれて、一人で食べた。こういうところでの和食は本当においしい。
廊下に、十数冊のノートがあった。お茶を飲みながら、ずっと、読んでいった。
若い方、お年をめした方、いろんな方の言葉がそこにあった。
翌日、チェックアウトの時、女将さんが、箸をくださって、恐縮しながらもらって、見送られてその地を離れた。。。
胸が苦しくなってきたけれど、
関係するすべての人々が安寧を取り戻せることを祈って。
今年は今始まったばかりだからこれからは良くなることだけだと信じて。
まずは、寄付からか。