レクイエム
西日本であるこの地は、雨が降っています。晴れている東北では、
激甚災害に指定させるであろう地震で岩手と宮城では苦闘し、
秋田では、明るい植樹祭が、中止されずに行われていました。
雨の中で、喪失について、沈思黙考します。
今日の記事は、おカタイです、念のためm(__)m
一番左の、パークスの「死別からの快復」を、今はなき広島丸善で
見つけたのは、父の死の6年後、高校3年の時でした。そのときまで、
喪失などは個人的な事情であって、普遍的に考察し公衆衛生の問題として
語る価値などはなく、ひとり心の中に隠しておくしかないのだと、思って
いました。
なので、この本を見つけたとき、胸の鼓動はドキドキし、手は震えました。
この本のそんな話は、以前一度、書いたかもしれません。
その後はもう、奔流の様に、この類の本を、捜し求めました。今に至るまで
私は誰にもそういうことを、口に出して語ったことはありません。
しかし、深く考察され、書によっては自分自身が喪失者で或るが故の
記述であったりして、そうした記述を読んでいると、自分自身で
カウンセリングをしている気持ちになります。
夫を失った妻
妻を失った夫
子を失った親
流産した親
母を早期に失った娘
生まれた時から一緒だったペットを失った小さな子供
愛する人との別れ
引いて写すと題名が見えなくなってしまうので全部を写せなかったのですが、
こうした種類の本が、だいたい3倍弱あります。
人は、当たり前のことですが、「出会った人の数-1」、の全員と、別れなければ
成りませんね(-1は、パートナーですね)。
故に、生にとって何が重要かといって、喪失の中でどうやって明日も歩いて
いくのかの、永遠に解ける事なき解を、考察し続けていく事以上に、重要な
ものなど、何もないと思われるのです。
そして、人が、そのすべての経験や想い出が、自分ただひとりで作られたもの
など何一つ無く、すべて、大切な人との関係の中に、在る、という事実を反芻
する時、この問いは、存在とは何かという問いと、静かに接続するのを、
感じます。
別れとは、いわば、自分を作り上げている器官が、ひとつ、またひとつと、
この体から引き剥がされることであり、その、終わることなき失われていく
日々に、どう折り合いを付けていくのか、ということでもあるように、思われます。
そういったわけで、エンジニアなのに私の本棚は人文書が並んで
いて・・・、しかし、ま、誰とも、そんな会話はしないで、友人と飲めば、
おちゃらけたギャグで、盛り上がるのです・・・。
「・・生を保証する条件そのものに対する生の関係が、その生の糧となり
内容と成るのである。生とは生への愛であり、私の存在ではないけれども
私の存在より貴重な内容との関係である。」(*1)
雨が少し弱くなってきました。
昨日は本屋さんで、「今日の料理ビギナーズ」と「クーリエ・ジャポン」の
それぞれの今月号と、アドルノの「否定弁証法講義」を買いました。
ビギナーズの今月の特集は、ひき肉の使い方です。今度は、何作ろうかな。
(‐^▽^‐)
*:「全体性と無限」E.レヴィナス,1961(岩波文庫,2005,上巻p-215)
