九月会計第一日目、主夫業についていまの僕の考察を書いてみようと思う。
まず主夫業とは、誠に持続力と忍耐力が必要な『業』である。
が、これは他の色んな『業』に共通のものでもある。幸いというべきだろう、僕は巳年ということも関係してか、分からないが、忍耐強いというよりは、執念深い質でもある。限られた時間のなかで、具体的には3ヶ月弱の期間の真ん中である九月においては、さらに合理化された、持続可能な『業』のスタイルを追求したいと思ってもいる。
今会計期間は、会計始まりを10月において月の一日に合わせるため、今日8月29日から9月30日までの間、八月の実績予算内で賄うつもりである。すなわち、33日間だ。
次に主夫業とは、持続力や忍耐力という、個人の自助努力以前の事であるが、家族の存在に支えられた業でもある。様々な業を支える顧客がいるのと、情緒においては異なる面もあるかもしれないが、本質的には同じである。人という文字が顕すように、顧客なき業は、それを業とはいわない、まあ、韻を踏んで、それを『行』と呼べるのかもしれないが。だから仮に僕が独人暮らしであれば、主夫の存在価値や動機自体が生まれないであろうと、容易に想像できる。特に食事など、家族が食べ始めてくれた時点で、初めてひとつの状況が完了するのである。そこに主夫のひとつの達成と実現がある。
グラフィックデザイン業になぞらえて言うならそれは、完成データを圧縮し、ファイル転送サービスなりにアップロードして、顧客にメールする、という感覚に似ているし、その受信確認の返信メールと慰労のメッセージが来たとき、それは家族、あるいは顧客に、『ごちそうさまでした』さらに『おいしかった!』などの心情のこもったコメントを得るに似て、シンプルに歓びや、やりがいに繋がるモノであることは、まず誰も否定しえない事だろう。
そして、また、業種に依らずそのような心情を共有できない人同士がいることも経験上知っているし、そんな人でさえも、朝ドラの『ごちそうさん』などをうっとりと遠い目で見ていたりするものでもある。すなわち、心情とは、確かにある、しかしそれが生活の現場において、機能不全に陥っていたりするという、現実もまた、あるのである。そこに、人間の持つ圧倒的な経験の差異をも感じたりするし、しかし僕はその差異を突き崩したいとは思わない、機動警察パトレイバーの後藤隊長と同じく僕もまた、命令や強制は嫌いだからね。
どうでも良い話しだがデザイン業者でごく稀に、自分の制作物を『排泄物』になぞらえる人がいるのを僕は知っている。そしてそのような表現の意図する事も分からないわけではない、にしてもなお、排泄物にもそれなりの善し悪しがあることも事実だし、それと同じように、人間にも実に様々な状態があるものだと、つくづく思う。そして、ただそれだけのことなのだ。
主夫業とは、また、大変に忙しい。
これだけの多角的重労働は、他の援助や協力無き情況で、仮に、働きに出ている女性が一人で行うのは、余程の知恵と才能が無い限り、100%無理な内容である。時間は限られているし、知恵を使う事が、お金を使う、という選択に頼りがちな事になれば、結局家計としてはトントンか、ともすればマイナスに転じることさえあるかもしれない、というのも僕自身の実感である。もちろん働き方にも依る話しだが。
このような一種の客観性を持って自分の行動のなかに尺度が生まれるという意味で、うつ患者がその快方の時期、医者からまずは家事から取り組んでみて下さい、と云われる事には、一理あると思えるし、家事とは、いわゆるクリエイティブな、というコトバで括られ、自己実現などといった口実を伴いつつ、成果として金銭以外の尺度なき『仕事』とは対局にある、ようにも思える。
無論主夫業にも、その過程において金銭を用い、それをいかに賢く使うか、という尺度はあっても、結果としてそれが、その事で新たな収入が得られるわけではない、無償の行為であるからに他ならない。それを『愛』というのも、ひとつの方便かもしれない。にしてさらに言えば、愛とは無償であるにしても、様々な欲が伴う、というのが今の僕の洞察である。だからこそ、取り組めるのである。
うつとよばれる病気は、様々な欲の喪失であるとも言われる。
失われた欲を自分の心に、比較的健全な形で再生する、家事という仕事、確かに効果があるように思える。
補足だが、このブログタイトルに、『ハウスキーパー』という英語を組んでいるが、これは実際には家政婦という金銭を得るための職業のひとつであるから、日本語で僕が使う『主夫業』とはニュアンスが異なる。
それはともかく、考察を続けよう。
(次の記事へ続く)
リビングの整理は過去への回遊であるといえる。そしてけして心地よい遊覧ばかりではない。
いま対面しているのは、90年代の女性雑誌の山である、原型そのままの雑誌であればサイズ別に分けて結わい付ければ良い。難物は、製本から切り抜かれて、あろうことか、クリアファイルに挿入されている何百もの紙片である。僕はいま、それらをクリアファイルごとゴミとして出す事が自分で許せないため、それらを抜き出して、『ファイルの中身』と『クリアファイル』とを、『紙』と『プラ』に分別することになる。デジタル化以前の写真の低解像度が網膜状に高解像度で入ってくるし、扇情的にヒトを、主に女を消費に駆り立てるコトバ、いくら感覚をモザイク化してもどうしても入ってくるコトバの数々には困惑を禁じ得ない。
『欲しいものがまだこんなにたくさん』、『ライバルには絶対教えないアイテム』『お肌油断しちゃダメ』などなどなど、、、
かつての疾風のごときウィルソン・ブライアン・キイのメディアセックスという本の事を思い出しつつ、サブリミナルやマインドコントロールというコトバ以前に、あまりに露骨で破廉恥とも思えるこれらのコトバは、確かにセックスへの衝動を突いていることが客観的に理解できるし、いまは二千十年代で、どんな雑誌も超電動化したスピード感を持つほどに螺旋運動の軌跡が明らかになっているし、つまりは同じことの繰り返しという事も露見し始めているわけだし、ひとつひとつのページに、それをスクラップしたりブックマークするほどの価値を感じている暇がない、と思うし、というのは、僕の年齢なのだろうか、ともかく現に目の前にあるそれらのゴミにも、分別という行動を通して向き合う、というのが、現在の僕のひとつの姿勢だし、男には負けると分かっていてもやらなければならない事があるわけだし、まずこんな事に目をつむったまま負けるわけにもいかないのだし。
ZAZEN BOYS のアルバムを聴きながら、30分ほどで分別を完了、明らかにそれを見る意識が変わった、穏やかになったといっていい。過去の清算とはこういう姿をしてもいるのか、と思った。
次に次なる二つの事を行った、
1、本雑誌類を整理することで初めて開く事ができた観音開きのキャビネットの中の整理、
2、キッチンのシンク下、一番端にある意味有りげに細長い、キャビネットの中の整理、のふたつである。
1の中には、ぎっしりと、CDやおもにVHSのヴィデオテープ、ゲームソフトパッケージが入っていた、まさに歴史的な貯蔵庫だ、いまこの現在において、磁気テープメディアとディスクメディアには、たいてい歴史的な価値以外に何もない、といって差し支えないであろう。意外な事だが、これらはすべて『燃えるゴミ』である。ビデオの四角い真っ黒ケッケのカタマリも、CDのケースも、シルバーのメディアも、一見してプラスティックかそれに類する石油素材の一種ととれるのだが、行政はこれを燃やしてしまうのだそうだ。『行政がそういうのならそうなんでしょう』という方便を借り、僕はガンガン選別していった。どうしても棄てるに忍びない物意外は、棄てる、ジブリやピクサーのビデオパッケージは迷わず棄てる。すでにネットでより高解像度で見れるか、その環境はいずれ一般化するのだから。
2の中には、多種多様な買い物袋が、詰め込まれている、それらをひとつひとつ取り出しながら、ある物の中には、なぜこれがここに?というような、小さな灰皿とかが紛れ込んでもいたし、祝い膳の箱、記念タオル、小さな子供の服なども入っており、そこでもまた僕は、歴史の錯綜した余白との対面をすることになったわけだが、それらをしみじみとした目で感じてみたところで、それ自体には何の意味も無いことである。買い物袋にも、紙製の物、プラ製のもの、少数であるが段ボール、布製のもの、4種類があった。ひとつひとつ見ていくとたいてい、他のゴミと同様に、『紙』『プラ』のリサイクルマークが入っている、ビニールっぽい印象のつるつるした物も、よくよく見ると、『プラ』と印刷されている、逆になんの記載も無いものを見ると、それらの意識のレベルが知れる様に思い、ダメじゃん、とか思うのも、いまの自分らしい意識であった。
かなり手際も良くなっているのだろうか、残して再利用すべき物とキッパリ棄てる物を意外と早く分けられた、
家にいる子供と三人の昼食をはさみ、ブックオフの集荷買い取りの依頼をする、本だ、月曜日にざっと見積もって5箱で予約した。金銭のリサイクルが問題なのではない、然るべく処分したいだけだ。
銀行に行き、嫁の口座の暗証番号変更手続きを済ませる、誕生日がそれになっていたので、ネットバンキングに登録できないからだ、帰途、ダイソーで砂消しゴム購入、ヤオコーで段ボール数個入手、
帰宅後、自分の部屋の二つの本棚の続きに取りかかる。腑分けする、というコトバは興味深い、ググル先生に聞いてみた。
…生物の体の一部(局所解剖)または全体(全身解剖)を切開し,臓器や組織の形態,構造,相互の位置関係などを調べたり,病因や死因などを検索することをいい,古くは解体,腑分けともいわれた。動物では,生理作用などを調べるために,生きたまま解剖することもある。…
これに照らして言えば、僕の本棚は、明らかに、臓同士がその壁を溶かされ、無惨なミンチ状になっていた。これらを、棄てるもの、重要な物、さして重要ではないが棄てるに忍びないもの、という大まかな種別に腑分けした。睡眠後の頭の中のようにすっきりした感覚が得られた。
本棚自体も移動を予定しているのだが、とりいそぎ本棚のボックスごとにそれらを入れ替えていった。棄てるものは、先ほどの細長キャビネットから出てきた様々なサイズの手提げ紙袋に入れて収納、またはビニールひもで結わえた。重要な物、というその基準は、確かにこの本はいまの自分と無関係ではない、と思えるか、にある。集約された背表紙は眺めていると感慨深い物がある。もし人生が永遠で、ヒマがありあまっていたとしたら、その背表紙を見ながら僕は毎日そのひとつひとつに、その歴史や考察を綴って飽きる事が無いであろうと思われるが、それは想像上の道楽に過ぎない。
そうこうするうちに、時間はすでに四時を回っている。
僕は部屋の至る所、一日の作業の痕跡を、各種の段ボールなどを、いったん視界のバックヤードに移動し、掃除機をかけた。
今日は僕が主夫業をはじめてちょうど一ヶ月目である。買い物には出ず、夕飯は頂き物のサバのみりん干しを中心とした献立にした。
その後、一ヶ月の生活家計の振り返りをした。
一ヶ月の純食費は、59409円、一日平均1980円、六万の目標達成に、小さくガッツポーズ。
もちろん米代も含んでいる。毎日の献立は全て記録していて、見返してみてもさほどわるくない内容だし、特にギリギリ切り詰めたという意識も無かったのも事実だが、食べ残しや食材の無駄が起きないよう、注意はしていた。つまり言って見れば普通に食べていればこのくらいで済む、という指標でもある。専業主婦であれば、これらをちょっとした工夫で切り詰めることで、容易にへそくり貯金が出来る予算であるとも、言えるだろう。
生活用品は、18159円
ちょっと高め、これは僕がキッチンを再生する上で購入した、いわば設備費も含まれているので、本来であればこの半分程度で済むであろう。
嗜好品8214円は、コーヒー、タバコである。タバコは僕がスモーカーだからだ、月途中に銘柄をラッキーから質感の似たエコーに代えたため、ある程度は抑えられているはずだが、出費額としては、ちょっと痛さを否めない。
電器、8238円、キッチンの蛍光灯二本と、プリンターのインク。まあしょうがない。
外食費は、3118円、外で自販機で買った飲み物と子供と寄ったスタバでの飲食費のみ
菓子、(僕はこれを純食費とは見なさない)3147円
ネコ二匹の餌代等、1709円
医療費、3803円、これは僕の通院、診断書の費用と家族の歯医者である
その他、家族に渡した最低限の小遣いと交通費などを合わせて、支出内訳合計は122734円。
その他、という若干不透明な部分と、初月ならではの日用品出費もあったため、自分としては、結構かかってるな、という印象であった、言うまでもないが、これ以外の水道光熱費、税金、月賦、通信費などもあるが、これらには、前月までの暮らしぶりも当然色濃く反映しており、今月の生活とは別で考える。
本棚やゴミの分別同様、腑分けして考える事が重要だからである。
いま対面しているのは、90年代の女性雑誌の山である、原型そのままの雑誌であればサイズ別に分けて結わい付ければ良い。難物は、製本から切り抜かれて、あろうことか、クリアファイルに挿入されている何百もの紙片である。僕はいま、それらをクリアファイルごとゴミとして出す事が自分で許せないため、それらを抜き出して、『ファイルの中身』と『クリアファイル』とを、『紙』と『プラ』に分別することになる。デジタル化以前の写真の低解像度が網膜状に高解像度で入ってくるし、扇情的にヒトを、主に女を消費に駆り立てるコトバ、いくら感覚をモザイク化してもどうしても入ってくるコトバの数々には困惑を禁じ得ない。
『欲しいものがまだこんなにたくさん』、『ライバルには絶対教えないアイテム』『お肌油断しちゃダメ』などなどなど、、、
かつての疾風のごときウィルソン・ブライアン・キイのメディアセックスという本の事を思い出しつつ、サブリミナルやマインドコントロールというコトバ以前に、あまりに露骨で破廉恥とも思えるこれらのコトバは、確かにセックスへの衝動を突いていることが客観的に理解できるし、いまは二千十年代で、どんな雑誌も超電動化したスピード感を持つほどに螺旋運動の軌跡が明らかになっているし、つまりは同じことの繰り返しという事も露見し始めているわけだし、ひとつひとつのページに、それをスクラップしたりブックマークするほどの価値を感じている暇がない、と思うし、というのは、僕の年齢なのだろうか、ともかく現に目の前にあるそれらのゴミにも、分別という行動を通して向き合う、というのが、現在の僕のひとつの姿勢だし、男には負けると分かっていてもやらなければならない事があるわけだし、まずこんな事に目をつむったまま負けるわけにもいかないのだし。
ZAZEN BOYS のアルバムを聴きながら、30分ほどで分別を完了、明らかにそれを見る意識が変わった、穏やかになったといっていい。過去の清算とはこういう姿をしてもいるのか、と思った。
次に次なる二つの事を行った、
1、本雑誌類を整理することで初めて開く事ができた観音開きのキャビネットの中の整理、
2、キッチンのシンク下、一番端にある意味有りげに細長い、キャビネットの中の整理、のふたつである。
1の中には、ぎっしりと、CDやおもにVHSのヴィデオテープ、ゲームソフトパッケージが入っていた、まさに歴史的な貯蔵庫だ、いまこの現在において、磁気テープメディアとディスクメディアには、たいてい歴史的な価値以外に何もない、といって差し支えないであろう。意外な事だが、これらはすべて『燃えるゴミ』である。ビデオの四角い真っ黒ケッケのカタマリも、CDのケースも、シルバーのメディアも、一見してプラスティックかそれに類する石油素材の一種ととれるのだが、行政はこれを燃やしてしまうのだそうだ。『行政がそういうのならそうなんでしょう』という方便を借り、僕はガンガン選別していった。どうしても棄てるに忍びない物意外は、棄てる、ジブリやピクサーのビデオパッケージは迷わず棄てる。すでにネットでより高解像度で見れるか、その環境はいずれ一般化するのだから。
2の中には、多種多様な買い物袋が、詰め込まれている、それらをひとつひとつ取り出しながら、ある物の中には、なぜこれがここに?というような、小さな灰皿とかが紛れ込んでもいたし、祝い膳の箱、記念タオル、小さな子供の服なども入っており、そこでもまた僕は、歴史の錯綜した余白との対面をすることになったわけだが、それらをしみじみとした目で感じてみたところで、それ自体には何の意味も無いことである。買い物袋にも、紙製の物、プラ製のもの、少数であるが段ボール、布製のもの、4種類があった。ひとつひとつ見ていくとたいてい、他のゴミと同様に、『紙』『プラ』のリサイクルマークが入っている、ビニールっぽい印象のつるつるした物も、よくよく見ると、『プラ』と印刷されている、逆になんの記載も無いものを見ると、それらの意識のレベルが知れる様に思い、ダメじゃん、とか思うのも、いまの自分らしい意識であった。
かなり手際も良くなっているのだろうか、残して再利用すべき物とキッパリ棄てる物を意外と早く分けられた、
家にいる子供と三人の昼食をはさみ、ブックオフの集荷買い取りの依頼をする、本だ、月曜日にざっと見積もって5箱で予約した。金銭のリサイクルが問題なのではない、然るべく処分したいだけだ。
銀行に行き、嫁の口座の暗証番号変更手続きを済ませる、誕生日がそれになっていたので、ネットバンキングに登録できないからだ、帰途、ダイソーで砂消しゴム購入、ヤオコーで段ボール数個入手、
帰宅後、自分の部屋の二つの本棚の続きに取りかかる。腑分けする、というコトバは興味深い、ググル先生に聞いてみた。
…生物の体の一部(局所解剖)または全体(全身解剖)を切開し,臓器や組織の形態,構造,相互の位置関係などを調べたり,病因や死因などを検索することをいい,古くは解体,腑分けともいわれた。動物では,生理作用などを調べるために,生きたまま解剖することもある。…
これに照らして言えば、僕の本棚は、明らかに、臓同士がその壁を溶かされ、無惨なミンチ状になっていた。これらを、棄てるもの、重要な物、さして重要ではないが棄てるに忍びないもの、という大まかな種別に腑分けした。睡眠後の頭の中のようにすっきりした感覚が得られた。
本棚自体も移動を予定しているのだが、とりいそぎ本棚のボックスごとにそれらを入れ替えていった。棄てるものは、先ほどの細長キャビネットから出てきた様々なサイズの手提げ紙袋に入れて収納、またはビニールひもで結わえた。重要な物、というその基準は、確かにこの本はいまの自分と無関係ではない、と思えるか、にある。集約された背表紙は眺めていると感慨深い物がある。もし人生が永遠で、ヒマがありあまっていたとしたら、その背表紙を見ながら僕は毎日そのひとつひとつに、その歴史や考察を綴って飽きる事が無いであろうと思われるが、それは想像上の道楽に過ぎない。
そうこうするうちに、時間はすでに四時を回っている。
僕は部屋の至る所、一日の作業の痕跡を、各種の段ボールなどを、いったん視界のバックヤードに移動し、掃除機をかけた。
今日は僕が主夫業をはじめてちょうど一ヶ月目である。買い物には出ず、夕飯は頂き物のサバのみりん干しを中心とした献立にした。
その後、一ヶ月の生活家計の振り返りをした。
一ヶ月の純食費は、59409円、一日平均1980円、六万の目標達成に、小さくガッツポーズ。
もちろん米代も含んでいる。毎日の献立は全て記録していて、見返してみてもさほどわるくない内容だし、特にギリギリ切り詰めたという意識も無かったのも事実だが、食べ残しや食材の無駄が起きないよう、注意はしていた。つまり言って見れば普通に食べていればこのくらいで済む、という指標でもある。専業主婦であれば、これらをちょっとした工夫で切り詰めることで、容易にへそくり貯金が出来る予算であるとも、言えるだろう。
生活用品は、18159円
ちょっと高め、これは僕がキッチンを再生する上で購入した、いわば設備費も含まれているので、本来であればこの半分程度で済むであろう。
嗜好品8214円は、コーヒー、タバコである。タバコは僕がスモーカーだからだ、月途中に銘柄をラッキーから質感の似たエコーに代えたため、ある程度は抑えられているはずだが、出費額としては、ちょっと痛さを否めない。
電器、8238円、キッチンの蛍光灯二本と、プリンターのインク。まあしょうがない。
外食費は、3118円、外で自販機で買った飲み物と子供と寄ったスタバでの飲食費のみ
菓子、(僕はこれを純食費とは見なさない)3147円
ネコ二匹の餌代等、1709円
医療費、3803円、これは僕の通院、診断書の費用と家族の歯医者である
その他、家族に渡した最低限の小遣いと交通費などを合わせて、支出内訳合計は122734円。
その他、という若干不透明な部分と、初月ならではの日用品出費もあったため、自分としては、結構かかってるな、という印象であった、言うまでもないが、これ以外の水道光熱費、税金、月賦、通信費などもあるが、これらには、前月までの暮らしぶりも当然色濃く反映しており、今月の生活とは別で考える。
本棚やゴミの分別同様、腑分けして考える事が重要だからである。
今日の伊勢原は、午前中からちょっと寒さを感じた、いつもの事だが寝入りの感じも夢見もひどく、朝の会話も悲しくなるほどひどかったが、ひどいひどいと嘆くより、すすんで爽やかさをそよぎましょう、と、ぼくはミワサチコさんの曲をかけた、
内子里山共和国の副都心、福岡市でたぶん生活されているミワさんの歌を聴いたのは、渡辺通一丁目交差点近くのカフェ・ジジでのライブだった、彼女の声に、心が乱反射した、とはいま描写したそのときの気持ちだった、僕は男だし、こんなきれいな歌声は持たないが、口ずさんでしまう、ミワさんの詩の世界が、自分の心の中にもあって、水面に映った晴れた月のように乱反射するんだよ。
どっかできこえたはなしなら、またあとに、して、だって、なんか、わすれ、ちゃいそうなっあ、きがする、ほら、みかづきなら、ちゃんとある、ぜひ、Youtubeでミワサチコ、検索してみて下され。
そんな感じで、僕はリビングの隅っこに巣食っている闇を突き、崩していった。たまった本、雑誌を引っ張りだし、仕分け、掃除機をかけ、ぞうきんがけをした、
だいたい、部屋は四角い形をしている、重箱の隅をつつくような、というが、重箱の隅がもし仮に汚れていたなら、重箱の機能を果たさない、たぶん、な。
それに僕はこうも考えた、僕はグラフィックデザイナーなので、たいてい四角い枠の中で文字やマークや絵柄を操作するもので、隅っこの重要性も、とっくによく知っていて良いのである。さらに、僕はしばしば写真を撮るが、言うまでもなく、写真というものは、現実に網膜に映っている世界を、四角く切り取る物だ、翻って、現実に網膜に映っている世界は、四角くないのである、とも。
こういう当たり前の事をいつも禅問答のように自分に問いかける、ということは、僕にとってはひとつの趣味のようなもので、決して飽きる事が無い謎謎である。その謎は、先のミワさんの声の比喩ににて、乱反射して思わぬところを照らしてくれる
やがて、部屋が少し広くなった感覚が得られた。が、油断すまいぞ。
いったん一休みしてから長袖Tがちょうどいいくもりぞらの下に出て、できるだけそっとした足取りで、図書館の本を返しにあるいた。
主夫として活動を開始してもうすぐ一ヶ月になろうとしている。
現時点で月を通しての課題を整理してみよう、三つある。
ひとつ、一家五人が必要充分な生活をするための、実績としての予算を計る事、
ひとつ、また一方で、実質の収入と支出を詳細に把握して中長期でハンドリングすること、
ひとつ、さらに、家族全員が快適に、労働力の再生産ができる、寛げる環境づくりがハウスキーパーとしての責務が最も上位のレイヤーとして、あるわけである。
僕には病以前に躁鬱という気質があることは自分でよくわかっているし、血液型による人間性把握を多用するヒトからみたら、AB型らしいねぇ、と云われるように、テーマのいかんによらず、ひとたび活動をはじめたら、それが常に成功するわけではないことも経験上よく知ってもいるが、ある種の完璧さを求めるタイプである。
それは性格資質的なものも多分にあるだろうが、それよりも、上の課題達成のための時間はつねに限られていると思うからだ。
この姿勢に関して、女と男の違いはどこにあるのだろう、と、僕はしばしば考える。
ヒトとして、何事かを自分で支配したい、管理下に置きたい、という欲求は、男女に差はないものと思う。云うまでもなく、ハウスキーパーとは、管理者である。またこれも、云うまでもない事だが、ヒトによりその管理方法が千差万別であることもまた事実である。つまりだらしなさも、キープされるものなのだ。
また論旨をたちもどる、女と男の違いはどこにあるのだろうか、と。
客観的な考察の一例として、僕が今連想するのは、『下着が異なる』である。
具体的には女性の洗濯物の処遇は、注意を払わなければならない。
僕は男だが、僕は女の下着を畳むのが苦手だ。男のトランクスは、ぴちっと畳む事が出来るが、女の『パンティ』または『ブラジャー』は、『畳む』ものではないような気がするし、わざわざググル先生に『パンティやブラジャーの畳み方』などと教えを乞うつもりにもなれないため、いまは特定のカゴに、ふぁさっ…と放り込むことにした。これはある種の秘匿行為である。性差は関係ない、ただし、女の下着とは、秘匿されるべきなにものか、であることに変わりないものではないだろうか、と思えてならないからである。
大きく論旨が折れ曲がってしまったが、とりいそぎ、これが僕のハウスキーパーとしての、女性下着に関する認識である。
さて、時間は限られており、ブログに使える時間もまた同じである。
僕が全力で主夫をしていられる時間も限られている、経済的な課題もまた厳然とあるからである。
僕は、思いがけない事だが、主夫に向いている、少なくともそれを楽しんでいる事は確かだ。それは管理者の優越であり、裁定者としての愉悦であるかもいれない。しかしながら何度も確認が必要な事だが、その時間は限られている。その条件のなかで、上に掲げた三つの課題には達成すべきレベルというものがあるのである。設定したリミットはのこり一ヶ月半。
常に僕は、イスカンダルへの道を歩んでいる、そして地球へ帰る。
男には負けると分かっていても、やらなければならない時があるのである。
それが性差だ、松本零士のコトバには、二の句が次げないほどの雄弁さがあるよな。

現時点で月を通しての課題を整理してみよう、三つある。
ひとつ、一家五人が必要充分な生活をするための、実績としての予算を計る事、
ひとつ、また一方で、実質の収入と支出を詳細に把握して中長期でハンドリングすること、
ひとつ、さらに、家族全員が快適に、労働力の再生産ができる、寛げる環境づくりがハウスキーパーとしての責務が最も上位のレイヤーとして、あるわけである。
僕には病以前に躁鬱という気質があることは自分でよくわかっているし、血液型による人間性把握を多用するヒトからみたら、AB型らしいねぇ、と云われるように、テーマのいかんによらず、ひとたび活動をはじめたら、それが常に成功するわけではないことも経験上よく知ってもいるが、ある種の完璧さを求めるタイプである。
それは性格資質的なものも多分にあるだろうが、それよりも、上の課題達成のための時間はつねに限られていると思うからだ。
この姿勢に関して、女と男の違いはどこにあるのだろう、と、僕はしばしば考える。
ヒトとして、何事かを自分で支配したい、管理下に置きたい、という欲求は、男女に差はないものと思う。云うまでもなく、ハウスキーパーとは、管理者である。またこれも、云うまでもない事だが、ヒトによりその管理方法が千差万別であることもまた事実である。つまりだらしなさも、キープされるものなのだ。
また論旨をたちもどる、女と男の違いはどこにあるのだろうか、と。
客観的な考察の一例として、僕が今連想するのは、『下着が異なる』である。
具体的には女性の洗濯物の処遇は、注意を払わなければならない。
僕は男だが、僕は女の下着を畳むのが苦手だ。男のトランクスは、ぴちっと畳む事が出来るが、女の『パンティ』または『ブラジャー』は、『畳む』ものではないような気がするし、わざわざググル先生に『パンティやブラジャーの畳み方』などと教えを乞うつもりにもなれないため、いまは特定のカゴに、ふぁさっ…と放り込むことにした。これはある種の秘匿行為である。性差は関係ない、ただし、女の下着とは、秘匿されるべきなにものか、であることに変わりないものではないだろうか、と思えてならないからである。
大きく論旨が折れ曲がってしまったが、とりいそぎ、これが僕のハウスキーパーとしての、女性下着に関する認識である。
さて、時間は限られており、ブログに使える時間もまた同じである。
僕が全力で主夫をしていられる時間も限られている、経済的な課題もまた厳然とあるからである。
僕は、思いがけない事だが、主夫に向いている、少なくともそれを楽しんでいる事は確かだ。それは管理者の優越であり、裁定者としての愉悦であるかもいれない。しかしながら何度も確認が必要な事だが、その時間は限られている。その条件のなかで、上に掲げた三つの課題には達成すべきレベルというものがあるのである。設定したリミットはのこり一ヶ月半。
常に僕は、イスカンダルへの道を歩んでいる、そして地球へ帰る。
男には負けると分かっていても、やらなければならない時があるのである。
それが性差だ、松本零士のコトバには、二の句が次げないほどの雄弁さがあるよな。


スーパーマーケットに赴くとき、いつも通り僕は、 THEE MICHELLE GUN ELEPHANT をタップするのだ。
『シャンデリア』が耳で鳴りだすとき、献立をキメる、勇気の在処を探す渇望が生まれ、『デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ』に続く時、心は買い物を予算範囲内で行う決意に満ちあふれ、心の中の隠されたカタナをぎゅっと握りしめる感覚とともに、クルージングが加速する、『PINK』に差し掛かる頃、猟を終えて家に向かう戦士のような気持ちで、僕は猟果を手に夕焼けに向かって闊歩するのだ。情況終了、次は、夕飯だ。
僕にとって、スーパーマーケットという、現世の終わることなさげな日常を象徴する空間のクルージングに、ミシェルの曲ほどマッチするものは無い。なぜだろう、といつも考える。圧倒的なテクニックなのだろうか、チバユウスケの屈折してビブる声なのだろうか、ドラムとベースの稠密なうねりなのだろうか、アベフトシの描く龍のような曲線なのだろうか、なんにせよ音楽はいろいろなコトバや気持ちを引き出すツールでもあるし、自分自身の狭窄な視界をクラッシュさせて、見えない襞を暖めて溶かしたり、ゆるくしなった感覚器官を氷結させるようなこともできる、魔法なのだ。そしてありがたいことに、それは必ず終わるのである。