描写される自分の姿が、どうしようもなく自虐に傾き、惨憺たるものになっていく。フランシスベーコンの自画像を彷彿とする、というと表現が飛躍しているかもしれないが。彼の絵にはしばしば、仮想的なホリゾン空間で、見えない力で殴られ、抉られ、捻られたような、歪んだ人物像が浮遊している。多くは肖像画であるが、ある人物のパーソナリティーをスタティックにシンボリックに集約するものとは全く異なり、変化する状態を一時的に凍結してみせるような作家の手法、または態度を表現してもいる。
いずれ、最後の切片が屠られた時、そこに何が残るだろうか。
そこに何かがあった、という、抽象的な、不在としての見えない点が残る、と云っては、いけないだろうか。
その断定が許されるのであれば、
僕自身の自己描写のプロセスの最後の最後に、何度も、何度も、頭に去来していたコトバがその「点」だった。これ以上ないほど抽象的な、この「点」というコトバは、そのときの孤立感を描き出す、最凶のニュアンスをもっていた。僕は「点」になってしまった、全ての線、絆から切り離された一つの「点」になってしまった、と、毎日のように頭を抱えながらそのコトバが頭蓋の内側を跳ね回る不快感に堪えがたく堪えていた。
それ以前、また対照的に、非常に活動的で何事にも断定的な行動をとっていた(と自分で思っていた)時期、建築家の坂口恭平さんの本で読んだ、あるフレーズを、今よく思い出す。
彼自身、躁鬱病を患っており、そのパーソナリティーを自らの表現の基盤とした立場で旺盛な著述や講演、美術、音楽、話芸など、その活動範囲はとても広い。彼が書いていたコトバは、うつの時期、どん底まで落ちる、これが底だと感じたら、さらにその面に穴を掘れ、というものだったかと記憶している。今このときに、その出典を確認する余裕は無いが、そのこと、つまりそのフレーズをだれでも図で表す事が出来るだろう、それは非常に興味深い。すべての関係性から切り離された点は、落下していき、いずれ底辺に衝突する。そこで彼は、そのどん底状態の面に反発してまた落下して来た空間への軌跡をなぞるのでなく、そのまま直進せよ、というのである。うつという状態を、まるでアドベンチャーのように見せてくれる、おもしろい表現だ、と思う。
病気は、快復する、というが、それは病気以前の状態に戻るということでは有り得ない。時間も経過しているのだし、通過してきた状態を『無かった事とする』ような快復は、実のところ、ごまかしに過ぎないと思う。運動の法則に従えばいずれまたどん底に落ちていくわけだから。それこそ無間の恐怖だ。
それに対して、衝突した地表を、坂口さんのコトバを借りて、掘っていったとする。そうするとその過程で、地表は単に抽象的な面としてあるのではなく、その下に様々な層が存在していることに気がつく事にもなるわけだが、もっともっ…と、掘り進んでいけば、その先にある物は、間違いなく、地球の中心という、点、の存在に突き当たる、であろう、たぶん。精神の世界にも万有引力の法則があるのか。そうである、とすれば、考えうるもっとも大きな視点で客観的に、その中心は、太陽である。
あなたは僕の太陽だ、などという錯乱したレトリックがあるが、客観的には、太陽は僕の太陽、なのである。地球の中心点が、何に曳かれているかといえば、それは間違いなく太陽に他ならないからだ。
やや論旨が錯綜してきたが、心の状態を地表での万有引力になぞらえて語り、悲壮に孤独を嘆いてみて、なにかこの描写にオチをつけるためにどうしたら良いのか、考え続けて、初めて、僕は太陽との関係をとうてい無視できない事に気がつくことになった。太陽だけは等しく誰も孤独にはしない存在であることは、まず、誰も否定できない。いわんや地球も、である。
太陽の運動、というより、太陽を中心とした自らの活動、すなわち、一日一日の生活を見、出来るだけのことを、その都度行う。それを基本にせず、心のカプセルの中で、なにごとかの表現が成り立つことなんか、有り得ないというのが、僕が最近痛切に感じている事でもある。
また、最近知り得たことだが、太陽から、新しい惑星が誕生したそうだ。黒点が多数観測され、それがある時期霧消し、なにごとか、となっていた後、太陽から惑星サイズの黒い球体が分離したことが観測されたらしいのである。観測者は、ロシアで研究を続けている日本人科学者、佐野千遥博士であるそうだ。
つまり、僕たちも、太陽の子、なのである。だれも孤独ではない、人類皆兄弟。
もちろんその気づきが一気に僕の心を健康にして今がある、と云うのは明らかに事実に反するし、ヒトがそんなに単純なものであれば、何の迷いも無く皆幸せに暮らせるだろう。
でもこれは宗教的やSF的な現実逃避とも違う、明らかに客観的で科学的な事実である。
かつて、スティーブジョブス氏が、スタンフォード大学の卒業式でのスピーチにおいて ”connecting dots” というコトバをテーマに述べていたことも、よく思い出される。過去に起きた点としての出来事が、現在の視点の中で見たとき、別の点と、偶然の接線を描く事の不思議。それは予定されていた事ではない。しかしながら、ある点を通過した事が、その後の新しい発見に繋がる可能性の無限について、これほど身近に感じさせるお話はそんなに多くないし、それは誰の生活の中にでも、常に起きている事なのであり、それを意識するか、無意識の闇にのまれるがままにするか、は、個人の選択の問題でもあるのだろう。
要は、モノは考え様、ということなんだろう。
実際、僕自身も、もがき苦しんでいた渦中には、こんなふうに、すかした調子でその時期を振り返り、それをアメブロに書くことなど、想像できなかったわけだし、同時に、いま僕が主夫をし、生活という事に対して、これほど緻密(当事者比)に目を向けることになるのは、うつと呼ばれる病気を通過して、具体的にはそのことにより、時間的な猶予が得られた事によってしか有り得なかったのも事実なのである。
そのことにひたすら感謝するばかりだ。
しんじまっちゃおしまいよ。
フランシスベーコンも、坂口さんも、佐野千遥博士も、ジョブス氏も、そして僕も、いつか死ぬということにおいては平等なのだ。(佐野博士はもしかしたら、、と思ったりもするが、、、)
出来る事がまだある、知るべき事、見るべき物が、あるのであれば、それをやる、そうしなければ、僕は自分が永遠に許せないだろう。
いまこの時期、二十四節季で云えば『処暑』である。すでに日も短くなり、六時を過ぎればもう薄暗い。





