「共感」と「同情」は、
似て非なるモノ、


と、私は思っている。

「共感」

とは、
相手が感情的にいる場所を認め
自分の中にもあるそれを感じることを
ゆるしながら相手と一緒にいること、

であり、

「同情」

は、相手を切り離しては、
助けなどが必要な「可哀想な人」
と見て、

「可哀想だなあ」
という感情を持つことである。

また、「共感」と

相手の物語や
相手の語るリアリティに

「結託」すること

も区別している。

例えば相手が辛い思いをしている、
ということに、

感情的に共感するのは
いいだろう。

しかし、それを感じるきっかけになった
出来事や関わる人たちを見る

その人の視点や体験を鵜呑みにして
信じては、

その人の方に寄ってしまう、
というのは「結託」だ。

そうしてあなたは相手のために
そこに存在しているようで、

実は無意識のうちにも

「被害者」

を主張するその人の
被害者としての物語とリアリティを
強化することを手伝ってしまう。

このアプローチがオーセンティックな
場合はまだましだが、

操作的になっていることに
気づかないセラピスト達も多い。

逆に共感力のない
コーチやセラピストも困りもの。

分析やアドバイスが大好きな、
こういう人のところへ行っても、
よくなるのは、

最初からわりと
ポジティブな自我、
機能する自我、がすでに
ある人たちね。

感情もある程度以上感じられて。

そうでない人たちはまずは、
自分の感じていることと
共感的に一緒にいてもらう、

と云うことを
ある程度以上経験する必要が
あるのではないか、

と云うのが私の仮説です。

 
完全に相手の味方でありながら、
それでいて相手の物語に結託しない、

自分の感情を切り離さずに、
相手と一緒に居続ける。

また相手の問題としているところを
きちんと認識しながら、

相手の力、相手の本質、にも同時に
焦点をあて続ける。
 

それには強さに裏打ちされた
無防備さが必要だ。

役割を引き受けながら
役割を演じない無防備さが
必要だ。

自分がエゴの状態にいて
相手の光をみようしても、
そうはいかないのだ。

さて私はと云えば、
クライアントさんが何らかの
プロセスを体験しているその最中に、

同じような感情を感じては
一緒に涙を流していることもあれば、

相手が地獄の中にあるのを
認識しながらも、

自分はエクスタシーの中に
座っている、ということもある。

 

 

 

2016年7月8日Facebook投稿より

 

 

 

 

 

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