「依存的」な人を
批判したり、悪く云ったり、
叱ったりするような
記事を目にしたりすることがある。

実際本当にその記事がさす人たちが
本当に依存的かどうかは、
わからないのではあるが、

書いている人には
そのようにうつっているだけでなく
それが

「いけないこと、悪いこと、だ」

と云う条件付け
があることがわかる。

時にそれらの記事からは
批判の下にある
依存的な人(と彼らが思っている)への

蔑みや憎しみ、
のような強い感情まで
感じることがある。

それほどまでに自分の
「依存性」をゆるせていないのだな、

と捉えて
やさしい気持ちでいることを意図する。

そうでないとうっかり今度は、
私の方が彼らの
批判的なあり方に同調しては、
批判的な人に対して批判的に
なってしまうから。

 
こういうのを
心理学的に「影」と云う。
(ユングね)

本当は心のどこかに
持っているというのに
受け入れることができない
自己の一部ね。

本当はあるのに、
生きて来なかった個人の側面、
と云うこともできる。

 
それは自己の意識上から隠され
抑圧されては
他者に投影される。

つまり自分にはないもの、
ないところ、として、
それがあることが見える他人を
批判したり嫌ったりする。

つまり「依存的」な人が嫌い、
な人たちは、

自分の依存性を認めることが
できないので、

当然愛することも、
ゆるすこともできないがゆえに、

他者にそれを見たときに
その他者をもまたゆるせないのである。

(理解しやすいように、
しつこく書きました。笑)

誤解を恐れずに云えば影は、

「自分がこうなるくらいなら
死んだ方がまし」

と思うような人、質、だ。
 

だから他人の悪口を言うのは、
自分の悪口を言うようなものである。

私も他人を悪く思ったりしては、
まあそれを口にだしてしまうこともあるが、
その後じっくり内省してみたりする。

その時の問いはこうだ。

もしも私が悪く思っている
彼/彼女と同じような質を持っている
としたらどこか?

私はそれをどのように
表現しているか?

どんなときにそれを
無意識のうちにでも行動して来たか?
 
 
ムムム、、、。

そうすると、、、。

ありあり、アリアンコイズミ。
(知人のハリウッド女優)

自分にもそういうところは
ありあり、というとこに気づく。

ああ!!

 
それから
他人にはゆるせなかった
その行動を無意識にしている
自分をゆるし、

その下にある
自分や世界に対しての
本当ではない思い込みを持つ
自分にやさしくする。

ときに行動を改める
決意に至ることもある。
 

同時に、
自分が好まないことを
続ける人や、

価値感が違う人とは
つき合わない選択をすることも
大事だ。

心理的にゆるせても、
貴重な時間をわざわざ、
心理的な修行に費やすことはない。

もっと優しい学び方が
あるから。

最悪その課題が終わっていなければ、
また新たな影としての
人生の登場人物を産み出すだけだとしても。
 
 
 
  
さてさて「影」には、
悪い方、ネガティブな方だけでなく、
ポジティブなものもある。

それを「ゴールデン・シャドウ」
と云う。

今度は自分の
素晴らしい、ポジティブな側面を
なかったことにしては、
他者に投影する。

芸能人に憧れたり、
誰かを必要以上に
賞賛したりしては、

自分にはそのようなところが
あるとは思っていない。
 

これもまた
ネガティブなものと同じように、

「自分のものだ」

と取り戻すことで、
全体性へ向かっての統合が
起きる。
 



今回女神山ライフセンターでの、
「魂と繋がる歌の唄い方
ファシリテーター養成コース」後半は

ハロウィンの日にまたがっていたので、

「自分の影」

を表現するコスチュームを着て、
やはりそれを表現する歌を歌ってもらった。
 

これは最高に面白かった。

ネガあり、ポジあり。
 
人殺し、失恋女、
ブラックウィドウ、娼婦、から

アリエル、天使、神聖な存在

などなど。
 

みなさん影の意味を
わかってらしたようで、
唸りながら、大笑いの夜でした。
 



写真はそのときの
集合写真。
 
私はコスチューム選びに
時間を取れなかったので、
たまたま誰かがもっていた

グレーのパーカーを借りて
ゲゲゲの鬼太郎の登場人物
「ねずみ男」に。

そうしたらやっぱり、
ぴったりな影でしたね。笑。