神蔵寺は金剛寺からバイクで約10分の距離ですが、国道を外れ、

集落から離れて山へと分け入った所にあります。
溜池を横に見ながら狭い舗装道路を進んだ先に駐車場があります。

紅葉で知られていますが、桜もまた駐車場で出迎えてくれています。
神蔵寺は桜の名所でもあります。

駐車場から寺の前の清流に架かる「みかえり橋」を渡ります。

橋を渡った右上方に山門があります。
神蔵寺は山号を朝日山と号する臨済宗妙心寺派の寺院で、

西国薬師霊場・第43番札所となっています。
延暦元年(782)に伝教大師最澄によって創建されたと伝わります。
延暦寺を開いた最澄は比叡山の西に、紫雲たなびき、朝日に映える朝日山を見て

この地へ訪れ、天台宗の行場としたとされています。
最澄はこの地に寺を建て薬師如来像を安置し、朝日山神蔵寺と号して

天台宗の一大道場としたとされています。
背後の朝日山(標高442m)には回峰行の名残を残す崖や滝行が行われた谷が

残されているそうです。

山門をくぐると正面に本堂への石段と、右側に庫裏があります。

石段下の右側に京都府の「天上の木」40選に指定されたもみじの木が

大きく枝を伸ばしています。

石段下左側の手水舎に湧き出る水は霊水とされ、

目を洗うと目が良くなると伝えられています。

本堂への石段を上った左側に神蔵寺の鎮守社である八幡大菩薩を祀った社殿があります。

現在の本堂には「瑠璃殿」の扁額が掲げられ、釈迦如来坐像が安置されています。
正暦年間(990~994)、神蔵寺は源氏一門の崇拝が篤く、

仏堂・伽藍・塔頭26院を擁する大寺となり、隆盛を極めました。
治承4年(1180)に以仁王(もちひとおう)と源頼政が平氏打倒のために挙兵し、

神蔵寺は園城寺(三井寺)に呼応して挙兵しました。
しかし、計画は露見し、準備不足のままの挙兵となって宇治川の戦いで破れ、

神蔵寺の所領は平氏により没収され、寺は荒廃しました。
神蔵寺には頼政の兜の守り本尊であった金銅の小薬師仏が伝わっています。
鎌倉時代の嘉禎元年(1235)、天台宗の僧・達玄僧都によって再興され、

女人禁制を解き、再び丹波随一の名刹に復興されました。
応永年間(1390~1420)には室町幕府の管領、細川頼元の補修を受けて

より隆盛をほこりました。
安土・桃山時代の天正3年(1575)には、明智光秀の丹波平定による兵火を罹り、

堂宇は全焼しました。
江戸時代の承応2年(1653)に浄土宗の僧・願西法師により本堂及び阿弥陀堂、

鐘楼が再建されました。
現在の本堂はこの時に再建されたものです。
その後、延宝7年(1679)に亀山城主・松平伊賀守忠昭が臨済宗妙心寺派の

高僧・高隠玄厚(こういんげんこう)を請じて中興され、

以後、臨済宗妙心寺派に改宗されました。

本堂前には絵馬が掛けられています。

本堂前の賽銭箱は「結縁大賽銭箱」と呼ばれています。
能勢方面へ向かう法貴峠の旧道には、屏風岩などの名がつけられた岩があります。
明智光秀が丹波平定に向かう途中、これらの巨岩に行く手をさえぎられ引き返し、

「明智戻り岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その地に幼い山桜が根を張っていたのですが、

平成2年(1990)にその木が伐採されることになりました。
伐採された木で作られたのがこの賽銭箱で、有志縁者によって奉納されました。

本堂の左側から裏側へと進んだ先に薬師堂(東方閣)があります。
堂内には薬師三尊像が安置されています。
中央の厨子内に安置されている木造薬師如来坐像は平安時代の作で、

国の重要文化財に指定されています。
最澄が延暦寺の薬師如来像と同木で自ら刻んだと伝わります。
脇侍として右に日光菩薩立像、左に月光菩薩立像が安置され、二躯は薬師如来像と

同時期の作とされ、亀岡市の文化財に指定されています。
平安時代からこの三尊は所領が平氏に没収されても、護られてきました。
光秀の丹波平定による兵火の際は、信者によって菰に包まれ山中に隠され、難を逃れました。
山中から流れ出る川は今も菰川(こもがわ)と呼ばれています。
薬師如来坐像は正月三ヶ日と4月8日の花祭り及び9月12日の薬師会に開帳されます。

 

背後の朝日山を少し登れば、枝垂れ桜が満開になっているそうですが、

龍潭寺 (りょうたんじ)へ向かいます。
続く