モヤモヤ ブラ 散歩~転がり込んだ西小山…13年目に遺言を聞く。。。 | 新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

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不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

いきなり無関係な話だが、またこのアメブロの奴がやりやがった!

ブログを記入するフォーマットを、いきなり大きく変えやがって…やりにくいったらありゃしない!!

 

 

 

では、本題に。

今年になって、自分が移り住んだ町を訪ねる散歩をしている。

今回は、初めて一人暮らしをした町“西小山”を訪れた。

東急目黒線「西小山」駅も随分ときれいになりました。

駅前まである!

昔は「目蒲線」という路線名で、大したスポットも無いことから歌にもなってダサさの象徴だったし、西小山の駅前なんて無かったんだから!!(笑)

駅自体も高架だったが、

現在では地下鉄駅ですからねー…。

線路跡も遊歩道になっていた。

 

西小山は、すぐお隣に大アーケード商店街で有名な「武蔵小山」駅があるので、存在は薄いと思う。

が、この町は、田園調布を作った渋沢栄一がここも同様に英国を模した田園都市構想のもとに開発された郊外型高級住宅地域だったそうなのだが、どう見てもそうは見えない。(苦笑)

とても庶民的で下町感が漂う町だ。

また西小山駅は品川区の端っこにあり、駅を出て左に行けばそのまま品川区、右に曲がれば目黒区という場所にある。

 

この町で、初めて1人暮らしを始めた。

当時、まだ学生で以前にも当ブログで記したように新宿で家族と住んでいた。

その新宿の家は借家で、ひょんなことから埼玉県内の一軒家の残りローンを払ってくれたら譲りますという話が父の知人から舞い込んだ。

そこで引っ越すことになるのだが、自分は神奈川県まで通学する身だったので、埼玉から神奈川までの通学、そしてバイトも渋谷区内でしていたこともあり、1人暮らしをせざるをえないことになった。

では、どこへ住むか?

考えている猶予は無かった…何故なら家族は引っ越すこととその日程を俺に言い忘れていたのだった!(笑)

来週末が引越しだ!なんていきなり言われても…。

初めての1人暮らしで不安もある。

となれば、仲の良い奴の家の傍に住めば、最悪そいつの家に転がり込めば良い!という発想のもと(笑)に1人転がり込んだ町が高校の親友が住む「西小山」だった。

最初の部屋もその友人に「探しといて!」と電話しただけ。(苦笑)

 

で、自分が住んだのは駅を出て右折した目黒区原町だった。

駅の右(西側)にはすぐ「西小山商店街」がある。

せまい道はそのまま。

小さなお店が連なるれっきとした商店街だ。

このせまい商店街を抜けると2車線道路とぶつかる。

この辺りが当時の生活の中心地だった。

画像右のセブンイレブンは当時はヤマニと言う個人経営コンビニだった。

 

まずは、高校の親友が見つけた住居を探す。

友人には「とにかく安くて、駅からも、お前んちからも近いところで見繕ってくれ!」と頼んだ結果、一般宅の2階の1部屋に下宿する形のアパートだった。

おぼろげな記憶のまま歩くと、ありました!

なんか超人ハルクのような色になってますが…。

緑色になった以外は何も変わっていない。

当時住んでいた部屋は、、、

2階の奥から2つ目の窓の場所が、初めて1人暮らしをした部屋でした。

4畳半に流し半帖と押入れという間取りだったんじゃなかったろうか?

トイレは共同で風呂なし。

それで当時月25,000円だったような気がする。

電話も無いし、ましてや携帯電話などもなく。

苦学生でしたねー。

当初は親が家賃は面倒見るという話だったのが、途中から仕送りが無くなり、自分のバイト代だけで学費と生活費を捻出していた。

当時、スナックの「カラムーチョ」というのが発売になったばかりで、近所の酒屋がそれを凄く安く売っていて80円くらいだったか?

それが毎晩の夕食だった時期が続いた。

「カラムーチョ」を食べ続けるとどうなるか?

カラムーチョの匂いを身体から発することになります! 

いやぁ、あれには驚いた。(笑)

 

結局、2年ほど住み、学生生活も終わりバイトながら社会人生活を始めだし、このままでは不便だということでユニットバス付き電話も引ける普通のアパートを近所で探し移り住むことになる。

それがこちら。

2階建てアパートで、各階3部屋づつ。

私の部屋は、1階の真ん中で5帖1間の狭いところで、家賃は50,000円だったかな?

このアパートの裏側、西小山駅とは逆方向に出るとバス通りがあった。

勤務地が渋谷へ移ってからは通勤混雑が無く座って通勤できることを知り、途中からバス通勤もしていたっけ。

 

ここで、この町に住むきっかけになった親友が住んでいた家を訪ねた。

そいつも貧しく母1人子1人で古いアパートに住んでいた。

この2軒の家の隙間を入っていたところの先にあいつの住んでたアパートがあった。

現在では敷地を広げて新しいマンションが建っていた。

親友とは高校時代に音楽好き、馬鹿騒ぎ好きながらも決して社交的でない(苦笑)というところで意気投合した。

自分がテストでかなり悪い点となり、学年最終試験で一定の点数を取らないと落第というところまでいったことがあった。

親友は勉強は出来るので、1晩私の家に監禁し(笑)テスト勉強を一から解るように教えてもらったこともあった。

あと、彼はギターが上手く独学でクラシックギターもロックギターもジャズやフュージョンなど何でも弾きこなすほどの腕前だった。

楽器好きで、そのうちベースやキーボード、リズムマシンや録音機材やらも揃えて、ちょっとしたスタジオみたいな部屋を作っていたっけ。

自分はコードくらいしかギターは弾けなかったが、適当なコード進行を弾くとあいつがそれに上手くアドリブソロを絡めてきて拙いながらもセッションや、即興でいい加減な曲など作って遊んだりしていた。

あとはスネークマンショーみたいなギャグを機材を駆使して録音したり。

しかし、あいつは元来躁鬱の気があり、ご機嫌全開な時もあれば、内に篭って全くやる気が無いこともあった。

それでも10~20代くらいの頃は若さで何とかなってきたが、30代の最後に完全に躁鬱が激しくなりそれが原因で急死した。

あっけない最期だった。

ご高齢のお母さんも当時持病が悪化して入院中ということもあり、あいつの葬式や告別式は内々で済ますということだったが行なわれなかったのかも知れない…。

未だに手を合わせたりお線香を上げたりする機会が無いのが悔しいし淋しい。

今年が13回忌だと言うのに…。

 

さて、駅の左(東側)も行ってみる。

お隣の武蔵小山とは較べようも無いほど短いわずか1ブロック分のアーケードが一応ある。(笑)

アーケードを入ってすぐ右に、昭和のまま時が止まったような玩具店が。

「まるや」さんというお店。

もう昭和で完全に時が止まったような商品ばかりがある!

このアーケードの先には「すずらん通り」という商店街が続き、それが途切れたあたりに高校時代からたむろしていた喫茶店があった。

とっくに廃業したのは知っていたがその場所まで行ってみた。

佇まいはそのまま!

「ミッシェル」という喫茶店でマスターが奥さんと2人で経営していた。

店名はビートルズ好きで同名曲からいただいたと言っていた。

マスターも音楽好きで、若いころにまだ無名の矢沢永吉のバンド「ヤマト」を観に行ってたとか、昔のクラブ「MUGEN」なんかへもよく行ったなんて話をしてくれた。

このマスターが、自分が1人暮らしを始めた頃、先に紹介した下宿アパートへ仕事の合間に時間を作って様子を見に来てくれたことがあった。

びっくりしたし、そして1学生のガキを気遣ってくれたのが、何より嬉しかったっけ。

 

さてさて、ジジイになって暗渠や高低差好きになった今、改めて寄っておきたいところがあったので向かう。

こちらの道路は、この位置から後ろ側へは旗の台へ続き、このまま真っ直ぐ前に進むと碑文谷へと続く道です。

しかし、この道も暗渠で昔は川が流れていました。

その証拠に、このまま前進すると「江戸見坂下」という交差点がある。

立ち止まって右に伸びる道を見ると、先のほうが坂になっています。

坂下は大概、川や水辺だった痕跡です。

ここを右に見ながら引き続き直進すると新たな信号のある交差点とぶつかる。

この左右に伸びる道は、最初の方で紹介した2車線道路です。

そして信号の先、いきなり延長上になる道のセンター部分にガードーレールと木々があります。

余談だが、右に見える建設中のマンションは昔モスバーガーだった。

よく週末のランチはここでモスバーガーとホットドッグを食ったもんです。(笑)

で、このガードレールの先はと言うと、

遊歩道になっていて、よく見ると橋の欄干に「羅刹橋(らせつばし)」とあります。

この遊歩道がずっと川で、ここと直交する2車線道路のこの場所は橋がかかっていたんですね。

そして、この遊歩道に入ってすぐのところに案内板が。

ここに流れていた川は「立会川」という名前だったんですね。

案内板の写真をアップしてみます。

昭和7年(1932年)の立会い川と側道です。

現在はこう。

 

この後、涼を取って、駅へと商店街を歩いていると、かつての親友の中学時代の同級生で自分も何度も面識のある知人とバッタリ!

色々と立ち話をしていたが、親友の最期を確認したのがこの知人だったそうだ。

親友が住んでいたアパートの部屋で息を引き取ったとのことで、その知らせを聞き慌ててあいつのアパートへ行きその亡骸と対面した際、日記のようなものが書かれていたメモノートがあったのを見たと言う。

亡くなる1週間くらい前からは判別できない文字が殴り書きしてあったそうだが、それよりも前になるとようやく判読できるくらいの文字になっていたが友人や知人の名があり、「バカヤロー」、「死ね」、「なんで来ない」と言った言葉が多かったと言う。

そして、その中に俺の名前も見つけたと言い、そこには「またお遊びで一緒に楽器弾いたりデタラメな曲とか即興でやりたい」と言うようなことが書かれていたそうだ。

…、そうか、あの頃の何の役にも立たないけどただやってる間は楽しかったあんないい加減なセッションがあいつの人生で楽しい時間だったんだと思うととても切なくなってくる。

13年ぶりに、やっとあいつの遺言が聞けたそんな感じだった。

 

帰宅して、そのことを思い返したら涙が溢れるのを止められなかった…。

ありがとう、M!

改めて、安らかに眠ってくれ。

あと、またお前の今いるところへ転がり込むのは間違いないから、そん時ゃよろしく!

ほら俺、ギターのチューニングできないから、調音して待っててくれ、な!!(笑)