上野にある国立化学博物館で、ワイン展のついでに、特別展「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」を観てきました。
渋川春海は、1639年に幕府碁所四家のひとつである安井家の長男として生まれました。
幕府碁所四家とは、将軍の前で囲碁を披露する役目を持った家で、その中の「本因坊」家の名前だけは聞いたことがありました。
14歳で父のあとを継ぎ、その後の江戸時代最強と言われた本因坊道策との対局の様子は、プロジェクタを使って展示されていました。
下の写真にも写っていますが、天の中心は北極星で、その位置にあたる中央にまず一手を打つ、という考え方で勝負しました。
幕府碁所四家にひとつに生まれた春海でしたが、興味は天文学に向かいました。
当時は中国の天文学を基本としていましたが、春海は観測を続け、新たに61星座を加えた天球儀や星図を残しました。
天球儀は、徳川光圀の命だったようです。
オリオン座の三ツ星の下にボーっと観えるM42(オリオン座大星雲)のあたりにある星をつないで、「大宰府」と名前をつけたのですが、どうしてそのような名前にしたのか知りたいところです。
春海の晩年と重なる第8代将軍徳川吉宗は、自然科学全般に興味を持ち、特自ら観測装置を考案し、大望遠鏡を作らせて天文台を建て、鎖国していたにも関わらず、書物の輸入を一部緩和するなど、天文学者と言ってよいほどの研究をしていたようです。
江戸で最初の天文台は、1690年に本所に春海がつくり、その後1842年までの間に7箇所も設けられました。
その後、高橋至時という天文学者が現れ、それは、測量で有名な伊能忠敬へと続きます。
光圀といい吉宗といい、こういった天文学の分野に力を入れていたわけです。
学校での歴史教育は、文化よりも、政治色が強いような印象が残っています。
その時代の人たちが興味を持っていたことに、もっと焦点をあてて授業で取り上げてくれれば、何百年の時を隔てていても、親近感を持って歴史を学べたように思います。