何が正しくて、何が正しく ないか、なんてことを追求することには
あまり意味がないような気がする
ひとにはそれぞれに生きてきた歴史があって
そのひとの人格や価値観を創ってきているので
それをひとつひとつ言及して、ウンヌンするのは
そのひとのことを受け入れよう、という姿勢から外れているような気がする
ボールを投げてみる
または、ボールを受け取ってみる
そういうキャッチボールのやりとりを何度となく繰り返して
ようやく、そのひととの間に、独自の関係性が生まれてくる
例えば、
あるお客さんは、こういう人だから、こういう風にしよう、とか
また、別のお客さんは、こうしよう、とか、
こちらとの間に、すり合わせが行われて
キャッチボールのやり方が、なんとなく出来上がってくる
このひととキャッチボールするときには、こうしよう、というリズムというか
そういうキャッチボールを、こまかくたくさん積み重ねた先に
ようやく信頼関係みたいなものが、できるんだろうなぁと思う
そういうものには、時間がかかるからこそ価値があるし
代替えが効かない、貴重な関係になってくるのだろうと思う
---
今日も、気を往還していこう
あまり意味がないような気がする
ひとにはそれぞれに生きてきた歴史があって
そのひとの人格や価値観を創ってきているので
それをひとつひとつ言及して、ウンヌンするのは
そのひとのことを受け入れよう、という姿勢から外れているような気がする
ボールを投げてみる
または、ボールを受け取ってみる
そういうキャッチボールのやりとりを何度となく繰り返して
ようやく、そのひととの間に、独自の関係性が生まれてくる
例えば、
あるお客さんは、こういう人だから、こういう風にしよう、とか
また、別のお客さんは、こうしよう、とか、
こちらとの間に、すり合わせが行われて
キャッチボールのやり方が、なんとなく出来上がってくる
このひととキャッチボールするときには、こうしよう、というリズムというか
そういうキャッチボールを、こまかくたくさん積み重ねた先に
ようやく信頼関係みたいなものが、できるんだろうなぁと思う
そういうものには、時間がかかるからこそ価値があるし
代替えが効かない、貴重な関係になってくるのだろうと思う
---
今日も、気を往還していこう