和紙の巻き物状の立派なお手紙を頂戴す。
そのあまりに も達筆な筆の運びに、ただ感嘆するのみ。
その送り主に、問う。
「どのようにすれば、そのような字を書けるようになりますでしょうか」
すると、主は 「書を見よ」 と、事もなげに一言。
手を動かす、のではなく、眼を使え、と、いうことなのだ。
これには、驚いた・・・!
確かに、太極拳でもそうだ。
老師の演舞する姿を、動画で繰り返し見るようにしている。
そうすると、自分が演舞するときに、老師が自分の体に乗り移ったかのような
感じがするのだ。
実際には、老師のようには上手くできない。
けれども、気のせいであったとしても、
「老師のように太極拳を打っている」という感覚を持つことが
大切であるような気がする。
また、何かに衝撃を受けて忘れられない、というときも
眼から刺激を受けたとき、であることが多いような気がする。
耳でよりも、鼻でよりも、舌でよりも、感触よりも。
もし、そうなのであれば、眼に何を入れるか、だ。
幸い、私の眼は、生きている。
眼が探している。
---
今日も、気を眼にしていこう。
そのあまりに も達筆な筆の運びに、ただ感嘆するのみ。
その送り主に、問う。
「どのようにすれば、そのような字を書けるようになりますでしょうか」
すると、主は 「書を見よ」 と、事もなげに一言。
手を動かす、のではなく、眼を使え、と、いうことなのだ。
これには、驚いた・・・!
確かに、太極拳でもそうだ。
老師の演舞する姿を、動画で繰り返し見るようにしている。
そうすると、自分が演舞するときに、老師が自分の体に乗り移ったかのような
感じがするのだ。
実際には、老師のようには上手くできない。
けれども、気のせいであったとしても、
「老師のように太極拳を打っている」という感覚を持つことが
大切であるような気がする。
また、何かに衝撃を受けて忘れられない、というときも
眼から刺激を受けたとき、であることが多いような気がする。
耳でよりも、鼻でよりも、舌でよりも、感触よりも。
もし、そうなのであれば、眼に何を入れるか、だ。
幸い、私の眼は、生きている。
眼が探している。
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今日も、気を眼にしていこう。