●むかし、写真にはまっていたことがある。

古いフィルムカメラを持って、よく街を歩いた。

もっぱらモノクロ写真。


●長巻きフィルムを買ってきて、パトローネに巻き、フィルムも自作した。

現像も自室でやった。

撮りおわったフィルムを
ダークバック(暗室の代わり)のなかで、フィルムをタンクに詰め替える。

温度を測りながら、現像液をつくり、現像する。
厳密に、時間を計りながら。

そして、埃がつかないように、フィルムを室内に干す。


●写真を撮るときには、
そのときの陽の光の量をみながら、絞りやシャッタースピードを調整する。

同じ時間帯でも、日陰と日向で、光の量がまったく違うことを知った。


●撮影も、現像も、全てがうまい具合にいかないと
良い写真にならない。

モノクロの写真が、白すぎたり、黒すぎたり、してしまう。

その絶妙さ加減が、ムヅカシクもあり、愉しくもあった。


●今でも覚えている、師匠の言葉。

「素人が、たまに、とんでもない写真を撮ることがある。
 あぁいう写真には、とてもじゃないが勝てない」

師匠は、プロの写真家であったので
常に、プロとして作品のクオリティを求められる。

素人のなかには、そういうプロを凌ぐレベルのものを出すこともあるが
それは、狙ってそうなる、というよりも、偶然によるところが多かったりする。

「たまたま、よく撮れた」というような。


●常にクオリティの高いものを出せてこそ、プロ。

たまたま良いものが出せた、というのは、素人。
例えそれが、プロを凌ぐレベルのものであっても。

なぜなら、素人のそれは「再現性」がないから。

「また、同じレベルのものを撮ってよ」と言われても、
絞り、シャッタースピード、陽の光を読む力、現像スキルに
ムラがあって、ぴったりと同じように「再現」できないから。


●文章を書くという行為は、写真を撮ることに似ている。

ある一場面を、切り取って、残す。

残す形式が、写真であるのか、文章であるのか、の違いがあるだけで。


●写真には、撮影者の心根が写る。
文章は、どうか。

もし、写真がそうならば、きっと文章もそうだ。

その時、その時の、心根が切り取られて、字の流れとなって表れる。


●写真が、何枚も連なって眼の前に広げられると、
一枚の写真を見ただけではよく分からない、撮影者の心根が
まるで、眼の前に立ち昇ってくるかのようだ。

きっと、文章もそうだ。
素人だが、このブログも、もしかしたらきっと。



---
今日も、気を切り取って残そう。