デニス・テン選手が亡くなった。
私はそのことを友人からのメールで知った。
翌朝、亡くなったというニュースと共に
親交があった人々からの故人に対する「コメント」が取り上げられ、
私は言いようのない違和感を覚えた。
笑顔のツーショット写真や、ピースサインの写真と、
「哀しい」「信じられない」という文字。
私は何年か前に友人を亡くした。
住む場所も離れていたし、年賀状をやり取りするくらいの間柄で、
その死も ご家族からの喪中葉書で知らされた。
それでも。
そのことをSNSに上げる気には到底なれなかったし、何か文字にしようとも思わなかった。
今でも、写真を見て悼む気持ちにはなれない。
「実はウソだよ~。」と、笑えない冗談を言ってたのじゃないかとすら考える。
たまたまつけたテレビで、ジャズサックス奏者の渡辺貞夫氏が
震災跡の慰霊碑を訪れた後にこう答えた。
「言葉がみつからないね」
と。
テン選手の訃報を知ってすぐ、哀しみながら信じられないと言いながら、
自分のカメラフォルダの中からSNS映えする写真を探したのだろうか…?
或いは、自分はこんなに親しかったんだよ、と。
こんなに哀しいんだよ、と。
共感して欲しかったのか…?
そこに付けられた「いいね」は、何が「良い」んだ…?
中には、写真も何もなく、ただひと言だけ呟いている人もいた。
白黒の写真を上げて、冥福を祈っている人もいた。
それは、わかる。
その感覚は理解の範疇だ。
そんなに、「コメントすること」は必要か…?
一般人と一緒にするな、と言われるかも知れないが、
哀しむ気持ちは同じだろう…?
だが確かに、その場の感情を共有し拡散することが
当たり前の感覚である人々はいて、
そうすることが当たり前だと、
それが常識だと、
考える人間も多いのだろう。
その哀しみをただ、受け入れることに精一杯な人間は、
時に揶揄され、疎外され、
悼む気持ちすら否定される。
「言葉がみつからない」のに、
訊ねられてもいないのに。
それでも、言わなくてはいけないのだろうか。
「言葉がみつからない」と。
先程のテレビの最後に、渡辺貞夫氏のライヴ演奏が流れ、
「花は咲く」を演奏しておられた。
やわらかい 優しい 音色だった。
観客の一人は
「国の宝ですね。心が揺さぶられました。」
と言っていた。
そして渡辺氏はこう言った。
「音のちからって、在るわけで。
音ひとつでほんと 涙がこぼれますからね。」
私も、その「ちから」を信じている…。