基本、エンタテインメントというものが好きで、多少関わった経験がある身としては、
頑張ってます!系の姿勢で望む方々の表現したものを、積極的に見ようとは思わない。
お芝居だろうと、バレエだろうと、ミュージカルだろうと、表現しているのは「自分の能力」ではなく、
あくまでも「作品」の一部分だ。
例え、脚が180度上がろうと、ピルエットを6回回れようと、
それが役の範囲を越えるものなら、それは単なる自己PRでしかない。
朗々と歌う田舎の若者。
明るい声の瀕死の女性。
(まぁ、オペラはちょっと別物だけど、でも表現力の問題だし)
オーロラにはオーロラの、オデットにはオデットの手や脚の角度があって、
こんなに脚が上がるんですよ~、こんなに回れるんですよ~的なダンサーの公演は、
どんなに能力が高くても、観に行く気にはならない。
だいぶ前、日本の某有名ダンサーが主催する公演を観に行って、
高っかい入場料を取ってるのに、音楽が生演奏ではなくテープで…!、
しかも、色んなオケや指揮者の録音をツギハギで使ってるのが丸分かりな、
なんの思想も音楽性もない、ご都合だけの音楽に呆れて、2度と行っていないのだが、
観客をなめてるのか、単に勉強不足なのか。
「もういいや」
と思う表現者が、結構多いのは事実だと思う。
さて、ことスポーツに関しては、これが当てはまらない…、と言うか、
当てはめ辛いことがある。
と言うのも、スポーツは、例え表現という採点項目があったとしても、
個人の技術力を持てる限り発揮しなければ、評価を得られない、という面があるからだ。
町田樹氏は、あるいはこういう部分のこだわりがあって、競技という枠の中にいることが窮屈だったのかも知れない、とも思う。
このプログラムならば、この作品ならば、ここで4回転を飛ぶことは違うけれど、
ルールに則って計算すると、入れざるを得ない。
とか。
本当はこのスピンを入れたいけれど、レベルを取る為にはこっちのスピンを入れなければいけない。
とか。
特に、「ジャッジの評価」という、実は曖昧なラインを探るフィギュアスケートは、
本人の伝えたいものと、演技内容を、全てイコールにすることは難しいのかもしれない。
さてここで。
どちらが違和感があるのか、あるいは難しいのか、は、本人に寄ったりもする。
アスリートとしてならば、完璧なプログラムを全うすることが、モチベーションの殆どを占めるだろうが、
表現者としてならば、「何か」を観客に伝えることもまた、必要となる。
その、せめぎ合い。
そして、そこにたどり着く以前の、コンディションの維持。
音楽の話をすれば。
ある楽器である楽曲にトライする理由には、
ある楽器である楽曲にトライする理由には、
幾つかの段階がある。
まずは、技術的なトライ。
次に表現としてのトライ。
年齢的なものもあるし、意図的なものある。
若い時期に、もはや技術的な理由を必要としない演奏者の選曲を見る時、
私はその理由をすごく知りたくなる。
例えば、10代半ばにして、リストの難曲を弾きこなすピアニストが選ぶ、「別れの曲」とは…?
ただ「好き」なだけでは選び難い曲。
需要と供給。
依頼と提供。
求められれば求められるほど、高まる期待と、ある種の義務。
表現者が先か、聴衆が先か。
一時期、若干マイナーな音楽業界にいたことがあって。
技術的にも音楽的にも遥かに優れたミュージシャンが、ヒヨッコにも満たないような芸能人よりも
世間的に評価されないことに納得がいかなくて。
スター性、とか、ポピュラリティとか。
そこで、思った。
マイナーなジャンルって、1人か2人、スターが出たら、パッて変わるんだなって。
そのジャンルに興味を持つ人が増えるのって、もちろん善し悪しもあるけれど、
単純に、三角形の底辺は広いほうが安定する。
そして、出来ることも増えてくる。
(まぁ、違う意味での縛りも増えるだろうけど)
求める有りようと、求められる姿。
答えのない、道程と目標。
推し測る能力すら持たない、ただの依存者や傍観者が、どうこう言えるレベルのことではないと思うのだが、
そういう事を、アイデンティティの糧にする人間がやたらと多いことに、時々寒気を覚えるのは私だけではないと思う、が…。