今年初のを見にいって来ました。

井の頭公園は、お花見をする方々で賑わっていました。


私たちは、たまたま、夜ご飯の後に井の頭公園まで足をのばしてみたら、美しい夜桜に遭遇できて、ラッキーでした。



西行の有名な歌は、日本人ならというと語弊があるかもしれませんが、多くの人が共感を持って、その美しさを感じられるものではないかと思います。


願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ


この歌の「花」とは、「桜」のことです。

奈良時代の和歌を見ると、「花」が「梅」を指しているものが多くありますが、平安時代以降は、「桜」を指すものが圧倒的に多くなります。


そもそも、今でも「お花見」🌸と言ったら、桜を見ることを指すのが一般的だと思います。


海外の人が、日本のニュースで「桜前線」や「桜の開花予測」というものがあるのを見て、たった一つの花の咲き、散りに一喜一憂していることに驚いた、という話は有名ですが、「桜」に対する思い入れは、昔から私たちの中に根付いているものなのだと思います。


六歌仙である在原業平の歌として有名な、「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」も、同じく桜に対する日本人の思いを表しているものです。


ただ、かく言う私は、昔は桜が好きではなく、なぜ世間の人たちが大騒ぎしているのか理解できず、桜の時期になるたびにその動向を冷ややかな目で眺めていました。


お花見になんて絶対に行かない、と思っていましたし、他に美しい花がたくさんあるのに、桜だけが特別だと思い込んでいるのは、マスコミに踊らされているんだ、と思っていました。


今は変わった自分に驚いています。

もちろん、花は桜だけではありませんが、今は、桜を見て「美しい」と自然に感じることができます。


ただ、昔から変わっていないのは、「美しさ」と同時に、何か心をざわめかせるような、「不安感」を覚え、一種の「魔的なもの」を感じるということです。


ずっと見ていると、桜とその周りの境界線がわからなくなり、異世界に誘い込まれてしまうのではないか、という、自分の存在が揺らぐような感覚を覚えます。


梶井基次郎や坂口安吾の作品を知る以前の、中学生時代から抱いていた思いですが、これも、多くの人の共通認識なのかもしれません。


その他の文学作品にも見られますが、最近でいえば、ゲゲゲの鬼太郎の映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎(名作でした)」でも、同じモチーフが描かれていました。


時間があったら、作品の中で桜がどういう描かれ方をしているかなど分析をしてみることができたらなと思います。

先行論文がかなりあるとは思いますが、それを踏まえて、自分で一つのことを考えることは大事だと思います。


自分の好きなことを追究し、研究できる時間が潤沢にある大学生が羨ましいです。


とりあえず、短編を読み返してみようと思います。