これはまったくの憶測の域を出ない話だが、ワールドカップ日本代表の岡田監督が本番ギリギリでシステムや先発メンバーの変更を行った裏には、彼一流の用意周到に仕組まれたストーリーがあったのではないかと思えてならない。
マスコミがとやかく付け焼き刃だのサプライズだのと騒ぎたてているが、代表監督がこんな大舞台に付け焼き刃で臨めるとは到底思えない。
ワールドカップ日本代表については様々な意見でにぎわっているので、私のようなサッカーに思い入れが深いわけでもないズブの素人がとやかくいう柄ではないが、こと人を管理する視点から見た今回のワールドカップ日本代表は実に面白いと思う。
これだけの実績を作ったにもかかわらず岡田監督を批判的に見る意見もまだまだあるようだ。
「4年間という準備期間があったにもかかわらず、中村俊輔にこだわりすぎたためにギリギリで変更せざるを得なかったことは、もっと早く決めていればメンバーも変わっていただろう」
「明らかな準備不足とマネジメント能力に疑問を感じる」など。
(まぁ、云っている人の顔を見てみたい気もする。あなた達はさぞかし会社で立派な仕事をしていらっしゃるんでしょうねって)
そういった意見に対しては別に岡田監督の肩を持つつもりはないが、反論として実は前回も今回も岡田にとっては4年という時間はなかった。オシム前監督が病に倒れて岡田に交代した時点で残りは2年と少ししかなかったし、マネジメント能力がなかったら、帰国直後の会見でチームにあれだけの一体感を出せただろうか。
また、中村俊輔や川口能活をはじめゲームに出られなかったメンバー達があれだけ腐らずにサポート役をこなせただろうか。そういう視点から観ると先述の批判は浅見と云わざるを得ない。
人を管理・マネジメントする立場からすると、そんな簡単にシステムを変更したり博打のような見切り発車はできない。例えば自分でスカウトして若い頃から育てた選手ならば、大概のことはコントロールしやすいだろうけれど、色んなチームから選ばれた当代一流の選手達なわけで、一筋縄では絶対にいかなはず。その猛者達をまとめ上げ、戦術を浸透させ、一枚岩にするのにはそのリーダーにかなりのリスペクトがないと言うことを聞いてはくれないだろう。
以前、仕事で鹿島アントラーズの相馬直樹と話をする機会があった。
ちょうどフランスワールドカップの1998年だった。相馬に岡田監督のことを聞いてみた。
すると相馬は「プロ野球なら王さんや長島さんとかなら、すごい結果を残した偉大な先輩なんで権威を感じますよ。でも岡田さんの時代は出られなかったわけですよね。でも我々はワールドカップに出ちゃったしねぇ」と言っていたのが印象的だった。あれから12年、またピンチヒッターで岡田監督になってワールドカップ出場となった。この12年間で彼なりに色んなことを学んだのだろうと思う。そこがフランスと南アフリカの違いが現れたようにも思えるのだが。
<システム変更について 私の憶測>
世間ではギリギリで変更した付け焼き刃と言われているが、このシステムは彼の頭の中に随分と前からあったのではないか。今回のシステムの布陣がまさにフィットして充分機能していたことを考えると、現地に行ってから考えられたシステムとは思えないのだ。ただしこれは中村俊輔のコンディション次第という条件付きで。本田と中村俊輔は同時併用が効かないので、どちらかのシステムを使うとどちらかがベンチになることも分かっていたと思う。実際ギリギリになっても中村俊輔のコンディションが上がらない。しかしいきなり俊輔をベンチに置いて本田をメインとするシステムに切り替えると中村俊輔が納得しない。
フランスワールドカップの時にギリギリでカズと北澤をメンバーから外した時に起こったチームへの影響を教訓として、世間の批判を覚悟で中村俊輔をメインとするシステムで壮行試合やテストマッチを続けて中村俊輔に引導をわたしたのではないだろうか。中村俊輔も自分のコンディションが上がらないことで本戦に突入しても勝てる見込みはないと理解したのでは。中村俊輔が充分納得したうえで温めていた本田をメインとした新システムに切り替えたのではないだろうか。ただし、本当に中村俊輔は納得はしていなかっただろう。しかし彼も以前と比べると大人になったのだろう。チームが機能するために、最高のパフォーマンスを行うためには、選ばれたにもかかわらずコンディションが上がらない自分ができる役割は自ずと分かっていたのだろうと思う。
<人心掌握について 私の憶測>
岡田としては、俊輔はせっかく南アフリカまで来たのにベンチウォーマーで納得はしないだろう。そこで岡田はこうなることを予測して、川口能活を主将に指名して連れていったのではないか。川口は幾度も大舞台を経験したGKである。追いつめられたチームの雰囲気を一番よく知っている。楢崎も同じだ。その川口にゲームに出るのではなくて、メンタル面のスタッフとして帯同を指示した。元々川口は南アフリカ大会に出られるとは思っていなかったにもかかわらず、岡田からのそういう要請が来たことを意気に感じて献身的にチームの面倒を見ようと決心したようだ。
これも憶測の域は出ないが、川口が献身的にチームのためにメンタル面でサポートしているのを俊輔が見て、自分の立ち位置を確保できたのではないだろうか。試合に出られない自分は何をしたらいいのか。そう思った目の前に川口が経験者として献身的に後輩達にいろんなアドバイスをしたりメンタル面をケアしているのを見て、自分もそうやって後輩達を支えてやろうと決心がついたのではないだろうか。華々しい経歴を持った川口と俊輔が岡田の指示のもと、腐らずに献身的にサポートしてくれれば、後輩達のモチベーションは上がるだろう。現に岡田の指示がなくても食事の時は本田の横に俊輔と能活が座って色々と話をしていたそうだ。
そして楢崎に変わって起用したのが川島。高地でのコンディションが上がらない楢崎に変えて先発に起用された。しかし楢崎も腐ることなく献身的に川島を支え続けた。
ワールドカップという4年に一度の長い長いストーリーの中で、人選をし、様々なシステムを試行し、今の今を判断して、ベストな布陣で闘うべきかを岡田は世間の批判を一身に受けることを覚悟の上で短い2年間という限られた期間を有効に活用して来たのではないだろうか。
全てを監督自身ががコントロールしようとすることは無理なことだ。
全ての選手が監督を向いていたのでは、選手自らがが考えて試行しながら実行に移すという意識を摘み取ってしまう。
できれば監督は人選を行い、それぞれに役割をはっきりと持たせて全ての選手が絡み合ってよりよい効果を生み出す戦略と戦術を行使するのが役割だと思う。
また、岡田監督のいう目標はベスト4というのはビッグマウスだと思う。しかし選手にとってみれば、監督がベスト4と言っている根拠は、ある意味自分たちがベストを出せばもしかしたらベスト4に行くことが可能なんじゃないか?と思わせる効果もあると思う。またそう思わせる事も大事なのではないだろうか。
端でみているとその監督の苦労は一部しか見えてこない。
しかしあらゆる経験と事例を集めて検証して総合的に見ていくと実に面白い人心掌握の妙味が分かってくる。またチームの分裂、監督批判などが起こったチームには何か見えない軋みがあったに違いない。
あくまでもここに書いたことは憶測の域を出ないが、仮に違ったとしてもそういう人心掌握術と考えれば面白い実例であったと思うのだが、如何なものでしょうか?
ワールドカップにみる私の妄想 独想 暴想でした。
ワールドカップ決勝トーナメント、日本対パラグアイ戦。
PKで日本の駒野がPKを外した。
次のパラグアイの選手がPKを決めて、日本のベスト8進出の夢は断たれた。
泣き崩れる駒野に、パラグアイの歓喜の輪からひとり選手が抜け出して
うなだれる駒野に額をすりつけて何か必死に語りかけた。
その選手がパラグアイのMFアエドバルデスという選手だった。
自分たちの歓喜の渦から抜け出して、敗者に優しく語りかけた光景は
どんなドラマを見るよりも素晴らしい光景に映った。
自分はそれほどサッカーに思い入れはない。
日本戦は見たけれど、欠かさず全てのゲームに夢中になることはなかったが
戦いを通じてかいま見る人間性を見て取れる大舞台には興味を惹かれた。
このアエドバルデスという選手。
さる解説には『パラグアイのクラブの研修生だった15歳から17歳までの二年間はスタジアムの周りを寝床とし雨風をしのいでホームレスとして過ごした経験があり、ドイツに渡ってからも地元の仲間や家族を非常に大事にしており、家族はプレーの原動力だと語るバルデスは故郷の子供達1500人のためにクリスマスパーティーを開催してサッカーボールやおもちゃをプレゼントしたり慈善活動にも力を入れている』とあった。
「人間の痛みを知る事ができた人は、人として大きな財産になる」とも言われている。
日本代表の戦いにも、心動かされたここ数週間だったが、
このひとりの選手の行為にも、自分は大いに心動かされた。
彼が駒野に言った言葉は
『お前が外したゴールは、次の対戦相手のゴールに入れておくよ!』だったと言われている。
荒んだ心ばかりが横行するこの現代にあって、敗者の心に優しさをもつこの言葉に心救われた気がした。

PKで日本の駒野がPKを外した。
次のパラグアイの選手がPKを決めて、日本のベスト8進出の夢は断たれた。
泣き崩れる駒野に、パラグアイの歓喜の輪からひとり選手が抜け出して
うなだれる駒野に額をすりつけて何か必死に語りかけた。
その選手がパラグアイのMFアエドバルデスという選手だった。
自分たちの歓喜の渦から抜け出して、敗者に優しく語りかけた光景は
どんなドラマを見るよりも素晴らしい光景に映った。
自分はそれほどサッカーに思い入れはない。
日本戦は見たけれど、欠かさず全てのゲームに夢中になることはなかったが
戦いを通じてかいま見る人間性を見て取れる大舞台には興味を惹かれた。
このアエドバルデスという選手。
さる解説には『パラグアイのクラブの研修生だった15歳から17歳までの二年間はスタジアムの周りを寝床とし雨風をしのいでホームレスとして過ごした経験があり、ドイツに渡ってからも地元の仲間や家族を非常に大事にしており、家族はプレーの原動力だと語るバルデスは故郷の子供達1500人のためにクリスマスパーティーを開催してサッカーボールやおもちゃをプレゼントしたり慈善活動にも力を入れている』とあった。
「人間の痛みを知る事ができた人は、人として大きな財産になる」とも言われている。
日本代表の戦いにも、心動かされたここ数週間だったが、
このひとりの選手の行為にも、自分は大いに心動かされた。
彼が駒野に言った言葉は
『お前が外したゴールは、次の対戦相手のゴールに入れておくよ!』だったと言われている。
荒んだ心ばかりが横行するこの現代にあって、敗者の心に優しさをもつこの言葉に心救われた気がした。

20年前、わずか3年間だけど暮らした街は随分と人気(ひとけ)のする街に姿を変えていた。
鬱屈とした毎日を過した独身寮は、すでに売却されて瀟洒な今風の建売りが並んでいた。
ただ、左となりにあったクリーニング屋はあの当時そのまま、投げやりなシャッターの閉め方のまま同じところに建っていたし、旧街道の町並みはあの当時とさほど変わることなく無造作にくねくねとした街道に沿って建っていた。
この街を離れて以来、一度も足を向けた事がなかった街なのに、ちょうど新習志野にあるクライアントに行った帰り掛け、ちょっとだけ湾岸の国道をはずれて寄り道をしてみる気になった。
実に20年以上も来る気も全然なかったのに、訪れてみようという気になったのは本当に珍しいことだった。僕にとってこの街はあまりいい思い出がなかったからだ。
行徳は東京との境の街。川向こうは篠崎で、東京のはずれの川岸に立つ製紙工場の赤白まだらな煙突が夕焼けに黒々とそびえ立っている。川岸に佇めば古い江戸時代に出来た灯籠がこの街の古い歴史を物語ってはいるが、安普請の古い木造が肩を寄せ合って立ち並び、狭い路地ばかりが無造作に巡る旧漁師町。近年の埋め立てのせいで海は遠く東の方へ持って行かれてしまったが、古い家並の軒下では年老いた漁師が網を繕っている光景がまだ見られた。東京湾に流れ込む新旧江戸川の河口に出来たどこからも忘れられたような街だった。少し激しい雨が降るとすぐに膝下まで水がついてくるような水はけの悪い湿地で、その当時新しく建った家々の間には、まだ沼とも空地ともつかない葦の生い茂った土地が広がっている。海よりの一帯は広大な皇室の鴨場が占め、周りの工場地帯とコントラストをなしている。
浦安から伸びるバイパスは、コンビニとファミリーレストランが一件ずつ。あとは無人の中古車センターと工場と沼地ばかりで夜になるとやたらと暴走族が我が物顔に往き来する。そんな裏寂れた辺鄙な街だった。確かに都心からは地下鉄で30分程で来れるこの街は、ベッドタウンと呼ぶにふさわしい通勤圏だが、あまりにも無造作に造成された海側の埋め立て地と奥の旧漁師町のコントラストが、あまり大事にされていない雰囲気を醸し出していた。
僕がここにやって来たのはもう24年も前の夏前の頃だった。
京都で就職したにもかかわらず、5月の連休明けまで京都本社で研修を受けた後、総務の女性から事務的に新幹線の片道切符と日本橋の東京支店と独身寮の地図を渡され、事務的な笑顔で送り出されてやって来た。
その時はわずか段ボール2、3個と布団袋が一個だけ。それでカビ臭い独身寮にたどり着いたのが24年前の今頃というわけだ。来た当初は、東京に勤めるといってたのに住んでいるところは千葉県の市川市、それも総武線の市川ではなく浦安の先の行徳という聞いたこともないところ。たどり着いてみれば京都とは比べ物にならない程の、がさつで安普請で人気もない時代に取り残された旧街道と無造作に埋め立てては工場を誘致するばかりで、水辺にも寄り付けない海、そんな京都生まれからすればいてもたってもいられないような、陳腐な街に連れてこられた自分を呪った。
その当時はバブル前のやけに日本の経済が活発に動き始めた頃であって、隔週週休二日で、日曜日以外はほとんどが終電か泊まりで来る日も来る日も冷房の効かない満員電車の東西線で行徳の駅から茅場町まで通ったものだ。
僕はそこでSHOGO HAMADAの「J-BOY」とともに暗い3年間を過した。
カレー嫌いになってしまったのもそこのせいだった。
鬱屈とした毎日を過した独身寮は、すでに売却されて瀟洒な今風の建売りが並んでいた。
ただ、左となりにあったクリーニング屋はあの当時そのまま、投げやりなシャッターの閉め方のまま同じところに建っていたし、旧街道の町並みはあの当時とさほど変わることなく無造作にくねくねとした街道に沿って建っていた。
この街を離れて以来、一度も足を向けた事がなかった街なのに、ちょうど新習志野にあるクライアントに行った帰り掛け、ちょっとだけ湾岸の国道をはずれて寄り道をしてみる気になった。
実に20年以上も来る気も全然なかったのに、訪れてみようという気になったのは本当に珍しいことだった。僕にとってこの街はあまりいい思い出がなかったからだ。
行徳は東京との境の街。川向こうは篠崎で、東京のはずれの川岸に立つ製紙工場の赤白まだらな煙突が夕焼けに黒々とそびえ立っている。川岸に佇めば古い江戸時代に出来た灯籠がこの街の古い歴史を物語ってはいるが、安普請の古い木造が肩を寄せ合って立ち並び、狭い路地ばかりが無造作に巡る旧漁師町。近年の埋め立てのせいで海は遠く東の方へ持って行かれてしまったが、古い家並の軒下では年老いた漁師が網を繕っている光景がまだ見られた。東京湾に流れ込む新旧江戸川の河口に出来たどこからも忘れられたような街だった。少し激しい雨が降るとすぐに膝下まで水がついてくるような水はけの悪い湿地で、その当時新しく建った家々の間には、まだ沼とも空地ともつかない葦の生い茂った土地が広がっている。海よりの一帯は広大な皇室の鴨場が占め、周りの工場地帯とコントラストをなしている。
浦安から伸びるバイパスは、コンビニとファミリーレストランが一件ずつ。あとは無人の中古車センターと工場と沼地ばかりで夜になるとやたらと暴走族が我が物顔に往き来する。そんな裏寂れた辺鄙な街だった。確かに都心からは地下鉄で30分程で来れるこの街は、ベッドタウンと呼ぶにふさわしい通勤圏だが、あまりにも無造作に造成された海側の埋め立て地と奥の旧漁師町のコントラストが、あまり大事にされていない雰囲気を醸し出していた。
僕がここにやって来たのはもう24年も前の夏前の頃だった。
京都で就職したにもかかわらず、5月の連休明けまで京都本社で研修を受けた後、総務の女性から事務的に新幹線の片道切符と日本橋の東京支店と独身寮の地図を渡され、事務的な笑顔で送り出されてやって来た。
その時はわずか段ボール2、3個と布団袋が一個だけ。それでカビ臭い独身寮にたどり着いたのが24年前の今頃というわけだ。来た当初は、東京に勤めるといってたのに住んでいるところは千葉県の市川市、それも総武線の市川ではなく浦安の先の行徳という聞いたこともないところ。たどり着いてみれば京都とは比べ物にならない程の、がさつで安普請で人気もない時代に取り残された旧街道と無造作に埋め立てては工場を誘致するばかりで、水辺にも寄り付けない海、そんな京都生まれからすればいてもたってもいられないような、陳腐な街に連れてこられた自分を呪った。
その当時はバブル前のやけに日本の経済が活発に動き始めた頃であって、隔週週休二日で、日曜日以外はほとんどが終電か泊まりで来る日も来る日も冷房の効かない満員電車の東西線で行徳の駅から茅場町まで通ったものだ。
僕はそこでSHOGO HAMADAの「J-BOY」とともに暗い3年間を過した。
カレー嫌いになってしまったのもそこのせいだった。
朝っぱらから電車のなかでつばぜり合いをしているサラリーマンたち。
押したとか押してないとか・・・・
みんな必死なんだね、ってのんきな事云ってる自分はどうなのよって事ですが。
まぁ分からなくもないけど、そうカリカリしたって何の解決にもなんないじゃないの?
ジリ貧になるとどうしたってオレがオレがって我が前に出て来てしまうのかも知れない。
大人になりきれない子どもなんて掃いて捨てるほどいるが(自分も多分なりきれてないが)こう季節が息苦しくなって経済がジリ貧になってくると、どんどん増殖してくるような気がする。
景気が良かった頃はみんな浮かれて許せた事も、舟板一枚下が海だと実感した途端に、我先に逃げようとする輩が目立ってきてしまうのは仕方がない事なのだろうね。
でもね、そんな朝の些細な出来事でさえちょっとしたインシデントが重大なアクシデントを引き起こす事だって間々あるワケだし、二人だけで誰もいない場所でやるんならいいけど、周りを巻き込んだりしないで欲しいな。いっくら辛抱強い私だってそんなつまらん諍いに介入しようとは思わないしとばっちり食らいたくもない。
本人同士だってお互い我を通したばかりに、思いもよらない方向へすっ飛んでいってしまうことだって予測に難くないじゃない?リーマン諸君は日頃会社組織にあってコンプライアンスやガバメントについて口うるさく云っているんだったら、自分達のリスクマネジメントやクライシスマネジメントをもっとしっかりしようよ。
てか、電車遅れてるんですけど・・・・
こいつらのせいで(怒)
ほら、二人だけの諍いを通り越しちゃったじゃないかぁ!
押したとか押してないとか・・・・
みんな必死なんだね、ってのんきな事云ってる自分はどうなのよって事ですが。
まぁ分からなくもないけど、そうカリカリしたって何の解決にもなんないじゃないの?
ジリ貧になるとどうしたってオレがオレがって我が前に出て来てしまうのかも知れない。
大人になりきれない子どもなんて掃いて捨てるほどいるが(自分も多分なりきれてないが)こう季節が息苦しくなって経済がジリ貧になってくると、どんどん増殖してくるような気がする。
景気が良かった頃はみんな浮かれて許せた事も、舟板一枚下が海だと実感した途端に、我先に逃げようとする輩が目立ってきてしまうのは仕方がない事なのだろうね。
でもね、そんな朝の些細な出来事でさえちょっとしたインシデントが重大なアクシデントを引き起こす事だって間々あるワケだし、二人だけで誰もいない場所でやるんならいいけど、周りを巻き込んだりしないで欲しいな。いっくら辛抱強い私だってそんなつまらん諍いに介入しようとは思わないしとばっちり食らいたくもない。
本人同士だってお互い我を通したばかりに、思いもよらない方向へすっ飛んでいってしまうことだって予測に難くないじゃない?リーマン諸君は日頃会社組織にあってコンプライアンスやガバメントについて口うるさく云っているんだったら、自分達のリスクマネジメントやクライシスマネジメントをもっとしっかりしようよ。
てか、電車遅れてるんですけど・・・・
こいつらのせいで(怒)
ほら、二人だけの諍いを通り越しちゃったじゃないかぁ!
若い子達のあいだでは、ネット上でバーチャルなアイドルに熱狂したりする事が流行っていたりするわけで、これもネットのなせるワザってところか。
最近のマイブームは過去のアイドル達を再発掘して楽しむこと。
いやいや、これがどうして楽しい(自分だけか?汗)
むか~し、親に「早く寝ろ!」などと叱られながら「夜のヒットスタジオ」なんかを盗み見してた頃のアイドル(っていっても歌謡曲ですが)達がネットのお陰でYou Tube上に映像がアップされていて再会できるんだから。
それもかなり昔のレアものに。
でも、よ~く見てみるとみなさん可愛い。
(現実はもう高齢なおネーサン達ですが)
ちこっと昭和のアイドルを見てやってください。
例えば「弘田三枝子」なぁんてご存知かな?
「人形の家」がヒットしたんだけど
実は日本女性歌手史上最高の歌唱力と云われた和製ポップスの大御所。
もう30年以上も前の映像だと思うんだけど、意外にファッションといいヘアスタイルといいメイクといい今見てもイカしてる。時代は巡って来るもので、こういうファッションやヘアメイクも現在のトレンドだったりして。バタ臭い(昭和っぽいね)お顔がまさにお人形のようにとっても可愛い(まぁ作られたものでも^^:)
弘田三枝子と双璧をなす「森山加代子」嬢。
歌といいアレンジといい振り付けもまさに昭和の匂いが紛々とするのだけど
それがまたオジサンにとっては安心感というか心地がいい。
この方もバタ臭いお顔立ちだけど、今のファッションにピッタリな出で立ちで
とってもキュートだと思いません?
この方はよくご存知でしょうねえ。「いしだあゆみ」嬢
今ではもう歌うことはなくなってしまわれましたが・・・
うぅ~ん、こうやってみると自分の趣味が分かってしまいそう。
彼女も目鼻立ちがはっきりしていて外人っぽい。
歌はもう昭和の歌謡曲の王道ですねぇ。
地方で小学生の頃、NHKでご当地の映像を映しながら歌謡曲を流すショートな番組があって
幼いながら「ブルーライトヨコハマ」を見ていて
ヨコハマってところはなんてオシャレな街なんだろうと想像したもんです。
ご本人はあまりテレビで見かけることはなくなりましたが
いくら美人も、寄る年並には勝てないもんですねえ。
次回(不定期)はもう少し現代に近づいてみましょう。
最近のマイブームは過去のアイドル達を再発掘して楽しむこと。
いやいや、これがどうして楽しい(自分だけか?汗)
むか~し、親に「早く寝ろ!」などと叱られながら「夜のヒットスタジオ」なんかを盗み見してた頃のアイドル(っていっても歌謡曲ですが)達がネットのお陰でYou Tube上に映像がアップされていて再会できるんだから。
それもかなり昔のレアものに。
でも、よ~く見てみるとみなさん可愛い。
(現実はもう高齢なおネーサン達ですが)
ちこっと昭和のアイドルを見てやってください。
例えば「弘田三枝子」なぁんてご存知かな?
「人形の家」がヒットしたんだけど
実は日本女性歌手史上最高の歌唱力と云われた和製ポップスの大御所。
もう30年以上も前の映像だと思うんだけど、意外にファッションといいヘアスタイルといいメイクといい今見てもイカしてる。時代は巡って来るもので、こういうファッションやヘアメイクも現在のトレンドだったりして。バタ臭い(昭和っぽいね)お顔がまさにお人形のようにとっても可愛い(まぁ作られたものでも^^:)
弘田三枝子と双璧をなす「森山加代子」嬢。
歌といいアレンジといい振り付けもまさに昭和の匂いが紛々とするのだけど
それがまたオジサンにとっては安心感というか心地がいい。
この方もバタ臭いお顔立ちだけど、今のファッションにピッタリな出で立ちで
とってもキュートだと思いません?
この方はよくご存知でしょうねえ。「いしだあゆみ」嬢
今ではもう歌うことはなくなってしまわれましたが・・・
うぅ~ん、こうやってみると自分の趣味が分かってしまいそう。
彼女も目鼻立ちがはっきりしていて外人っぽい。
歌はもう昭和の歌謡曲の王道ですねぇ。
地方で小学生の頃、NHKでご当地の映像を映しながら歌謡曲を流すショートな番組があって
幼いながら「ブルーライトヨコハマ」を見ていて
ヨコハマってところはなんてオシャレな街なんだろうと想像したもんです。
ご本人はあまりテレビで見かけることはなくなりましたが
いくら美人も、寄る年並には勝てないもんですねえ。
次回(不定期)はもう少し現代に近づいてみましょう。