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before the dawn

夜を縦横無尽に 駆け抜ける クリエーター sei_jin が贈る 
夜明け前の独り言コラム

すっとむかし、小さい頃に親に「ピアノが欲しい」といって
相手にされなかった記憶がある。

友達の家にいくとアップライトピアノがよくあって
ほとんどは回転椅子に乗っかってぐるぐると回っては気持ちが悪くなる事くらいしか
触った記憶がなかったが、ある男友達はお姉ちゃんと一緒に小さい頃から
ピアノのお稽古に行っていて、小学校ですでにかなりの腕前だった。

そんな友達の得意になってひくピアノが欲しくて欲しくてたまらなかったけど
うちは音楽なんて誰一人としていそしむ人間がいなかったので
そういう方向は自前で何とかするしかなかった。

中学に入って、ギターを買って友達と一緒にかぐや姫だとかチューリップだとかを
コピーしまくった。
おかげで今、ギターが弾けるのも若い頃にやっていたおかげだと思う。
(まだ、なかなか指が動かないが・・・)

大学に入ったら、教員系だったので小学校課程のために自由に使えるピアノ練習室があって
すきな時に入り込んでは、好きなだけ弾くことができた。

でも残念な事に、自分は楽譜が読めない。
ちゃんと勉強したことがないのだ。

でも、インチキだけどギターコードで鍵盤の押さえるところを覚えた。
それでもなんとか音は出せるし、耳で聞きながら指で音を探すのだ。
そんなこんなで、なんちゃってピアノは手に入れることができた。
いま、うちにキーボードがある。
以前に後輩の借金のカタにせしめたものだ。
いまは娘が弾いているが、時々夜中に自分も弾く。
相も変わらず耳コピーで。

Macのガレージバンドというデフォルトのアプリを使って
打ち込みができるのだ。
でも、ひとつひとつ打ち込まなくても
ダイレクトに鍵盤を弾いた音をそのアプリが記憶をしてくれるダイレクトイン方式が使える。
そして最近、MIDIとUSBをつなぐコードを手に入れた。

だから休みの夜中、家族が寝静まってからヘッドフォンをしながら
ひたすらへたっぴぃな打ち込みをやっている。

テンポもめちゃくちゃ、時々ミスタッチ。
でも後で修正してくれるのだ。
そうやって打ち込んだデータをiTunesにUPしては
ひとりでにやにやしている。

この休みもやることあるのにひたすら加工しまくってた。

まぁ、結構オタクな趣味だけれど、金もかからぬおとうちゃんの道楽です(笑
ゆるしてちょんまげ^^;







慌ただしかったけれど、恩師の墓参に参加するために京都にゼロ泊2日で行って来た。

ツアーバスという格安な高速バスでの往復。
4列シートの普通の観光バスなんて、学生時代にスキーに行く時に使って以来久しぶりに乗った。
3列シートといって縦に3列だから、真ん中の列は左右に通路があって、窓側を含めて横の人とは干渉しない作りになっていてリクライニングも充分倒せる、そんな高速夜行専用バスではなくて、本当に観光目的のバスを利用した4列シートの夜行バスである。

さすがに座ってみると、身動きができないくらい狭い。
隣りがもたれかかって来る事もあるし、リクライニングも後ろを気にして倒すことも出来ない。
でも、何処でも寝られる私には別段苦痛でもなく、行きが¥4,500、帰りが¥4,000の往復¥8,500の安い料金が魅力で早朝着いて深夜に離れられるので、現地で充分に活動できる。
ちょっと行って来るくらいなら充分だ。

さて、4月の京都は、今回墓参りをした恩師を見舞いにいった4年前以来だった。
その時も風の強い櫻も残り僅かな時期だった。
なかなか仕事の都合がつかずに、見舞いにいけなくて、ようやく伺った時には先生の意識はもはやなく、昏睡状態であったが、声を掛けた時、僅かに目を開けられて自分を確認されたような気がした。
そしてその日も日帰りで東京に戻って来たのだが、その翌日に先生は逝かれた。
学生時代には、色々とお世話になりながら、就職するとすぐに東京に来てしまった自分は他の同窓の仲間と比べて、卒業後、あまり関わりを持つことが出来なかった。
先生に託されて東京に出て来た後輩の面倒も、半ばで先生の後を追うように逝ってしまった。
そういう思いもあって、遅きに逸する感はあるが、なるたけ先生にまつわる行事には参加したいという気持ちがあった。今回は研究室や学科の先輩、同輩、後輩が集まって墓参りをするというので日帰りではあるが参加することにした。

墓参後には参加した11人と三条のレストランで
昼間っからビールで先生の昔話や仲間の話で盛り上がった。
(自分は酒を飲まないのでコーラばかりだったけれど)
久しぶりに忘れていた思い出話や、その後の仲間の消息を確認したり。
そして何と言っても関西弁で心置きなく話しをする機会など最近あまりないのでそれも妙に楽しかった。

25年にも前の時代を共有した人たちに再び会うという事は
過去に戻るという事ことだけではなく自分の出自を再確認する事なのかも知れない。
歳を取ってしまうと、数年なんかあっという間に過ぎてしまう。
昨日会った仲間と共有した時間がそんなに昔だったとは思えないのが不思議だが
事実25年は過ぎてしまっているのだ。
そう、自分はその25年をどうやって生きて来たのだろうかと、そのときみんなの顔を見ながら思った。そうだ、そうやって4年間を過して、今に至るのだと思い出していた。
そういう出自をもってして今の自分があったのだとしみじみと思いを巡らせた時間だった。



墓参りに集合する前に、少し時間があったので、昔から好きだった場所に行って来た。

京都には生まれて25年暮らした。
年代年代にあわせて気に入った場所は違う。十代の頃、自分が好きだった場所は岡崎から蹴上げという場所まで歩く事だった。
好きな女の子と高校時代、岡崎の美術館で展覧会を見て蹴上げのインクライン辺りまで南禅寺を通ってそぞろに歩くのが好きだった。

大学生の頃、『院展』という日本画の展覧会を岡崎の美術館に観に行った。
午前中の早い時間に行くと人も少なくてゆっくり観られる。
人けのない館内をゆっくり観ていたとき、長い髪を後ろに結わえて着物を着た少女がある日本画の前にずっと立って見入っていた。
何気なくその絵画をみながらその少女の横顔をそっと見てみるとその絵画に描かれている横顔の舞子の顔がその少女そのものだった。ためらいながら、「もしかして、この絵のモデルはあなたですか」と問うてみた。するとその少女ははにかみながら私を見てうなずき「へえ、そうどす」と答えた。彼女は祗園の舞子で、さる有名な日本画の画家に頼まれて絵のモデルになったのだと説明してくれ、モデルになった時の話を色々と話してくれた。ただその当時の私には花柳界の事など何の知識もなくて、近寄り難い大人の世界に暮らしているたぶんその当時の私よりも歳下の少女に大人びた雰囲気を感じて少し引け目を感じた。初めは祗園言葉で話していた彼女も、打ち解けるとまるで友達と話すような言葉に変わっていった。
そしてどちらともなく美術館の近くの喫茶店に行ってお互いにいろんな夢中になって話した。
そのうち彼女は、私の面白おかしく話す事に何処にでもいる女の子みたいに弾けるように笑っていた。
店を出て別れ際に、彼女が「あの・・・」と云ったのは覚えている。「なに?」と聞き返した私も若かったのだろうか。
「いえ、べつになんでも。今日はいっしょに見て回れて、そしてお話しできてとても楽しかったです」と云って彼女はお辞儀をして去っていった。


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その当時は今のように携帯電話やメールのような便利なものがなかった。
もしも携帯があったとしても、住む世界が違うふたりは再び会うわけにもいかなかったろうし、お互いの連絡先は聞いてはいけないと思ったのだろう。彼女もそう思ったに違いない。だから「じゃあね」といって別れたのだ。
そんな遠い昔、美術館の天窓から差し込む午前中の光に黒髪と襟元が眩しかった一度きりの思い出だけで、彼女が住んでいるであろう「祗園」という場所が私の中では特別な場所になった。私は就職してすぐに東京に来てしまったので、大人になってから「祗園」という場所で遊んだ記憶がない。京都という街は学生は木屋町。少し大人ぶってから先斗町。れっきとしたおとなの遊び場が祗園と決まっている。
そんな20代の初めの淡い思い出も遠い昔の彼方のように、もうすぐ私も初老といってもおかしくない50歳を迎えようとしている。

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私にとって特別な思い入れのある祗園のお気に入りはやはり新橋、巽橋界隈。
あの風情が好きでよく写真を撮りにいったし、亡くなった恩師とも歩いた事があった。
今回はその祗園巽橋界隈を訪れてみた。
今年の桜はまだ散りきらずに私を待っていてくれた。
桜の時期、そのうす桃色の花は個人的には青空には似合わないと思っている。
「花曇り」と云われるが、ちょうど曇り空にあの桜の花はよく似合うと思っている。
今回の京都も午前中は曇り空だった。

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もう櫻も終わりに近い時期だったので、ひと風吹くたびに桜吹雪が凄まじく、白川の川面を花びらが埋め尽くす程で、さながら猛吹雪だった。





なかなかこんな櫻の時期に京都を訪れる事はめったにない。
今度はいつ訪ねて来られるのだろうか。



  
 
成城の街では今、桜が満開である。
砧公園も緑の中に桜が満開を迎えている。

桜を観るという習慣がここ数年、とんとなくなってしまった。
そういう風情を実行に移そうとしない家族と付き合っていると、自然とそうなってしまった。

昔、京都に住んでいた頃、早春に友人と四駆ショップのオーナーから三菱のジープJ-57を借りて北山の奥深くにある「八丁廃村」へ出かけた事があった。

人里離れ、周囲を800メートル級の山々に囲まれた谷底にある見捨てられた廃村には、その当時まだ土蔵などがそこかしこに点在していた。京都市内からバスで2時間は有にかかる場所。現在は京都市右京区に編入されてはるが人里離れた場所には違いない。

この集落は、1879年(明治12年)に上弓削村と佐々里村との境界が決定するまでの600年間、権益争いを続けていたという興味深い歴史がある。昭和8年の冬、歴史的な大雪で長期孤立、食糧も底をつき複数の犠牲者が出てから、その状況に絶望して村民が離村した。昭和11年に最後の住民が離れ、集落は無人となったと聞く。

そんなところになぜ早春に尋ねたかというと、ここの山の斜面に「山桜」が観られるからだ。
「山桜」とは日本の桜の原種である。普段あちこちで見かける「染井吉野」は江戸時代に交配して作られた品種で、早く育ちかつ花の付が派手で見応えがあるため、全国に広まった。手植えされた桜の代表品種であるが、「山桜」は古来より日本の山々で自然に育った天然種である。染井吉野よりも年月がかかり、花はうす桃色で染井吉野よりも付が少ない。染井吉野よりも派手さはないが、日本の山里によく似合う可憐な桜である。
その「山桜」が「八丁廃村」の急斜面の山々に点在して咲いているのである。昼から市内を出発すると帰りが遅くなって危ないので、なるたけ早めに市内を出る。倒木が塞いだり、岩盤が露出してガードレールもないような林道を何時間もかけて走ると、ようやくその廃村にたどり着く。

春霞のかかった山あいの斜面に遠目に見ると、そこだけ刷毛でうす白い岩絵の具をさっと塗ったような、ぼうっとした白さと云えばいいだろうか。緩やかに谷間をゆく風に揺れながら、「彼女達」はそこにいた。谷底から吹き上げる風に桜吹雪が舞い上がり、幻想的な「絵」か、あるいは能の舞台を観ているようであった。さながら桜の精が現出したようにも思えるのだ。

友人とふたり、ジープのエンジンを切って、風の音を聞いた。
およそ人間が奏でる音というものはそこには存在せず、山あいの中腹を縫うように取り付けてある林道から、上や下を眺めながら、まったくの自然の音の中に自分を浸していく。

ふと、友人が「この山桜たちは、もしかしたら僕らしか観なかったかも知れんな」
そうだな、我々はここまでやって来て彼女らを暫し観ることができたが、ある年にはこの満開の時期に誰も訪れないこともあるかも知れない。
その時は人知れず咲き、そして散っていくばかりなのだ。
それを観て人は「儚い」と思うが、彼女達にとってみればそれがいにしえからの定めの如く淡々と年を繰っているだけなのかも知れない。

染井吉野や枝垂れ桜のように、毎街なかにあって毎年大勢の人たちに観られる桜もあれば、この人里離れた山奥にひっそりと咲いて散っていく桜もある。その差にまた諸行無常を感じる。

古来、日本人は桜には思いを寄せる。
特に西行法師は桜が好きであったらしい。
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」と詠み
まさに如月に亡くなっている。

桜が咲く期間はわずかに一週間からせいぜい十日あまりのことなのに、季節の始まりの儀式のように桜が咲いている間にそわそわしては、何かしなくてはと思う。
しかしいつも家族に引きずられて花見ではない行動を供にしているうち、気がついてみると青葉が芽吹いて桜の花びらが道の片側に吹きだまりのようになっている。それを見るにつけ来年こそはちゃんと観る事にしようと思うのだが、また今年もゆっくりと愛でることも出来ずに「来年こそは」とすでに思っている昨日今日である。


しかし、わたしはこのあといったい何度、桜を観る事ができるのだろうか。





スタッフ達の話題は、月曜日までは「余震」や「計画停電」による通勤手段だったのに、昨日あたりから「原発事故」で持ちきりだ。

次から次へとアップされる原発関連の情報をサイトでチェックしてあちこちで「にわか物理学者」が講釈に余念がない。
「やばいですよ」とか「会社として帰宅命令は出さないんですか?」とか色々責任者の私に言ってくる。しまいには「これでスタッフが被曝したら会社は責任取ってくれるんですか?」とまで言ってくる。
しかし、無責任なことを言っては申し訳ないが、私は派遣会社のプロパー社員でもないし、単に出向扱いのコンサルみたいなもので、会社規定も知らないし労務管理を任されている訳でもない。いわゆる現場の傭兵指揮官でしかない。
確かに数日前から毎日、福島原発の建屋が水素爆発を続け、微量ながらも人体が一年で受ける放射線量が検出されたとかの情報が飛びかっている。よくよく調べたところでも、果たして現在の事故状況が東京に暮す我々に与える影響がどれだけなものか実感がわかない。営業マネージャーも会社に問い合わせるが、返ってくる答えは「現場統括の私に任せる。あとは自己判断に任せる」だと。

それを聞いてまた自己中なスタッフから文句が噴出。
挙げ句の果ては委託先の判断にまでけちを付けてくる始末。やれやれ。
「どうするんですか?」んーん、どうしようね?どうしたい?と聞き返すしかない。

よく考えて見なよ。政府発表の情報の信憑性だって私には分からない。
「絶対に隠匿してる」「本当の事を言ったら世界的にもまずいし、国民がパニックになるから本当の事をいってないんだ」「もうすでに手が付けられない状態になっていて、後は我々に死ねと言ってるんだ」とか云ったって確たる情報はないんだから私からは何ともいえない。ビルが火災になっていたら退避しろとか、退避経路を考えて一番安全な経路でみんなを誘導はできるが、放射線ばかりはどうすることも出来ない。

特に海外ではかなり報道がヒートアップしているらしい。ロンドンに赴任している友人からのメールには、欧米は原発事故にはナーバスになっているから、連日日本の原発事故の話題で持ち切りらしい。その友人も娘を日本に帰省させようと思ったけれどキャンセルしたと書いてあった。

海外ではもう日本は世紀末的な報道が過熱しているようだが、日本人が鈍感なのか、一部の危機感を持っている人たちがヒステリックになっているのか、本当に判断ができない。ただ、現時点で自宅待機という企業が多いようだ。表向きは計画停電のためとされてはいるが、その中には原発事故による不測の事態も含まれているよと、知り合いの大手制作会社の部長はメールで云っていた。

危機管理とは、予知をする事や状況を冷静に分析して対処する事であると認識しているが、こと原発事故に関しては経験と予備知識がないので「インシデント」が明確に分からない。となると政府の発表する情報や指針を信じるしかない。というか日本政府を信じるしかないというのが、最終的な結論だと云わざるを得ない。それで重大な事態に巻き込まれたら、それはそれで信じた自分の自己責任なんだから仕方がないのだ。

ただ、そうは云っても原発の危険は増大している事はまったくは否定できないが、少なくとも旧ソ連のチェルノブイリ原発事故とは状況はまったく違う。あの場合はソ連が事故自体の情報を隠蔽していたために、何も知らない住民達は事故の起こった原発の周りで暮し続けたために人体に甚大な影響を与えてしまったのだ。
今回の福島の事故は世界が注目しているので、隠蔽も何もできないはずだ。ただ最悪の場合は多少なりとも東京にも汚染は広がるにちがいないが、政府と東電の努力を応援しながら推移を見守る他はないのだ。

しかし敏感な人たちはけっこういるもので、今週だけで仕事のキャンセル2件、健康診断キャンセル1件、打ち合わせキャンセル2件、先ほども今夜ミーティングをしようと話していた制作会社の社長から「東京から逃げるから今夜のミーティングはキャンセルに」って電話がかかって来た。

色々と情報が錯綜しているが、もしかしたら決断する時は、今日明日が正念場なのかも知れないね。

明治維新以降の日本は、対外的な侵略に脅えながらも強い国家にならなければと政府と国民が一体になって努力をした希有な時代であった。確かに単純に豊かになりたければ頑張れば良かった時代だったのかもしれない。政府も目標がはっきりしていたこともあって富国強兵を強力に押し進めていったし、今を思えば国民に課された税金はかなり重いものであった。米と絹くらいしか生産できなかった国が、脅威たる仮想敵国ロシアのために当時の国家予算の3割強を軍事費に充てて当時の列強と伍する海軍力を持たざるを得なかった。にもかかわらず、国民は国家を信じて疑わず麦や粟を食しながらも国家のために貢献した。時には自由民権運動などの民衆運動が勃興したりもしたが、それも国家は議会政治に昇華した。貧富の差はあったものの、慎ましやかな国民は現代の中東地域で起っている紛争のような不平不満を政府転覆等の行為にエスカレートすることはなかった。
ただ、全てが良かったとは云うつもりはない。確かに不平不満はいっぱいあったであろうが、当時の元首である明治天皇を心の支えに国民は甲斐甲斐しく働き、戦場に赴き、国家のために働いた。確かに今との違いは、当時の国民性の中には旧来の武士道精神が色濃く残っていて、忠義や滅私奉公といった精神性をもって慎ましやかなる国民性を形成していた。国家の要を担う為政者達も、今と比べると明らかに胆力が違う。同じく幕末から維新をくぐり抜け、新しい国家を作り上げなければ列強に飲み込まれてしまうという強迫観念に苛まれながらも、海外に目を向け、自らも語学を操り、対外的にも一歩も引けを取らない国際人が多く存在していた。それは世界に通用する学問は海外に求めざるを得なかった事情もあるが、たとえ海外留学の経験はなくとも当代一流の決断が出来る胆力のある人材が傑出した時代であった。
歴史観を持たざる国家は荒廃すると確信している。人間は過ちを繰り返し、後悔もすれどもそれを何度も繰り返す。なぜ日本は太平洋戦争を引き起こさなければならなかったのかという疑問は、歴史の教科書には載っていない。「日本書紀」が日本のルーツを語っていないのと同じく、時の為政者の都合で書き換えられることはよくある事だ。我々が教えられた事は、戦勝国の都合で書き換えられた事であって、事実とは異なる部分も多い。とは言え、アメリカが悪いとは言わない。強いて言えば当時のマスコミの代表である新聞と無知な国民の高揚心が日本を戦争に駆り立てたと言わざるを得ない。その事実を語れる人々は後20年もすれば死に絶えてしまうだろう。自分たちの子供の世代は太平洋戦争と大化の改新を同列にしか見られない歴史観しか持たない世代だ。その世代にリアリティを語れるのは今の時代を生きている40代から50代の世代しかいないということを忘れてはいけない。