虫の音を聴いていると季節の変わり目だからか
がらにもなく「愛する事」とか「愛される事」とか黙考してみたくなるけど。
とりあえず、家人はもはやその範疇にあらずで
そういった事の為に頼ったり頼られたりする存在ではないので
この際この黙考から除外するとして・・・
「愛する事」と「愛される事」って考えるとき、そういった主題主義にはうんざりする。
獏として得体の知れないものに右往左往させられて、甲論乙駁口角泡を飛ばしたところで、心の何処かで「くしゅっ」って音がするって気分には絶対に負けちゃうのだ。いわゆる感性や具体的な方法を主体に考えないと、論旨の中心がどっかへ行っちゃうのだ。
ましてや、こればかりは定量では判断できないしろもので、個人差がついて回る気がするし
それぞれの経験値や思い入れの差で、ひとくくりでことばの表現はしずらい。
「愛してる」と言っても「どれだけ?」と訊かれたら百の言葉を尽くしても答えられない。
だから考えても考えても結論なんか出やしない。
スタンダールだってヴァレリーだって坂口安吾だって森瑶子だって
知性と感性の相剋に悩んできたわけだから
我ごときちっちぇえヤツに、かくも壮大なるテーゼを悟れるはずはないわな。
とはいえこんな自分でも時々思うのさ。
いまどうしているんだろかとか、逢いたいなとか・・・・
やっぱり色んな事が原因で心が弱って来てしまうと
こころの何処かでそんなこと考えては、そんな程度の事なんだけど
暫しの耽溺に甘い時間を消費するのだ。
でも、恋愛ってふたりでするもので、ひとり妄想していても成り立たないし
その気がない相手にご執心も寂しいし、たとえふたりでいても歯車が合わないと
お互いにシンドばかりで。
愛は与えるべきものであって、乞うものではないと云う。
しかし、ことポール・ヴァレリーに於いては生涯に四度の大恋愛に耽溺して、つど女性の愛を乞いつづけた。たぶん女性も愛を乞われつづけれられれば変わっていくか離れていくかだろう。
ひとりは気ままなんだけど
浜田省吾の「ロマンスブルー」って歌がある。
忙しいのに恋心に邪魔されると、そんな気分になることも時々あるってこと。