グラスと水 | 風まかせのガレージ

風まかせのガレージ

ようこそ。ここは日帰りバイク散歩「風まかせ」のツーリングレポート書庫です。
※バイク雑誌「風まかせ」さん(2006年創刊)と当イベント「風まかせ」(1994年スタート)は何も関係がありません。

人それぞれに持って生まれた才能の器がある。

大きさだけで言えば、初めてなのに20年やってる人より深味を出せる大きな容量もあれば、多くの人が1時間で掴めることを20年かかってやっとボンヤリ見出せる容量もあったりと様々だろう。同じ容量でも容器のデザインは様々。才能があっても無くてもみんな顔を持っていて百人百様だ。

歌うことは自分に語りかける歌唱もアリだろうが、聴者と言う受け手がいて初めて完成する。

聴者は何か「聞こえる」「響く」から耳を傾ける。同じ色している魂だから「聞こえる」「響く」のか、その色に憧れるから「聞こうとする」のか。

凡庸だったり酷い内容で他者に向かって歌う資格はあるのか。ある、と俺は考える。

耳を傾ける人がいるか否か。それだけだ。街ですれ違う全ての人と恋に落ちるわけでは無い。歌おうと決めた。声を出した。そこに歌は「生まれる」。他の誰でも無い、自身が歌う歌だ。

器の大きさは増やせなくとも磨くことくらいは出来る。どう磨くか、どの程度磨くか。それとも磨かないままを貫くか。決めたアンバイですらその人自身が表れる部分。

今、そこにいるその人が歌っている。今、ここに、生きている自分が歌っている。

才能があって努力を重ねた人が歌を高みへ引き上げ、深く掘り下げ、遠く広げてきた。だから人々は歌が美しいことをより深く知ることが出来、そして無数の凡庸な人々が才能溢れる歌に耳を傾けるからアーティストはまたその世界を磨くことが出来るのだ。

その広い世界に満ちている美しい水を自分のグラスですくい上げ、飲んでいる。「ありがとう」と歌うことぐらい許されるはずだ。