話題のアドラー心理学者 小保方晴子氏の涙に「思惑感じた」
*NEWS ポストセブン 5月6日(火)16時6分配信
「承認欲求を持つな」「自己肯定するな」「子どもはほめても叱ってもダメ」――従来の常識を覆すようなアドラー心理学が、いま、多くの共感を呼んでいる。アドラー思想を対話形式でまとめたベストセラー『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健 著/ダイヤモンド社)の著書である岸見一郎氏に、アドラーのエッセンスを聞いた。
 
このような書き出しで始めるネット記事があった。私も蝶々夫人のところでアドラー心理学の紹介をした。2014/4/2(水) 午後 7:48の本ブログ
 
私なりの解釈であるが、アドラー心理学は、人が幸せを感じるための知恵の提供というところだ。
 
彼(彼女)にふられても早く立ち直るためのスキル(考え方)
がんを宣告されても、すぐ気持ちを立て直せるためのスキル
仕事がいやになっても、何とか続けるためのスキル
嫌な奴が上司にいても、つきあっていくためのスキル
近所つきあい、親せき付き合いにいきづまった時のスキル
自分にとりえがないから、生きていてもしかたないと感じる時のスキル

こうした人間関係のつまずき、自分への嫌悪感や絶望などが起きた時、アドラー心理学は、切り抜ける考え方を示唆してくれる。
 
小保方事件についても、この上記の記事は以下のように書いている。

小保方晴子氏は会見で、涙を流さずに言うべきことを言う勇気をもってほしかったなということです。涙という感情に、アドラー心理学者としては、様々な思惑を感じてしまうからです。
 
私の感想では、人は感情の動物なので、泣いてもいいじゃないか?若い女の子は泣くのが普通です。
例の会見で、彼女は言いたい事はしっかり言っていたのではないかと思います。
あの場面で、涙がでるのはしかたないのです。
「STAPはあります!」との小保方氏の言葉は、その断言と遠慮の混じった印象的な言い方でした。
 
私の周りの女性で、この言い方をそっくりまねした方がいました。うまい!
独特の抑揚のある言い方が、人々の印象に強く残りました。
スリッパたたきのパロディにもなるほどのインパクトでした。
 
人々の関心という意味から、理研は大きなマイナスのイメージをしょいこみました。
理研はこの問題で、マスコミのターゲットになるのは、もういやでしょう。
いづれの立場の研究者もカメラの前に出てくるのはいやなのです。
どうふるまっても悪役的な立場になりそうです。
時間を費やして批判を浴び、自らの研究に得になることは皆無です。
結局、専門的判断という大義名分で、処理したいのでしょう。
 
元々、海のものとも、山のものとも言えない次元の研究であれば、それが正しいかどうかは判断できません。
専門家同志、相手の研究内容をねほりはほり、チェックなどはできないのです。
 
後に、STAPが将来、臨床応用が可能になったとして、当時(今の事)の判断は正しかった・・・となり、今も将来も、理研は判断ミスなど認めません。
 
この問題を、アドラー心理学的に考えるなら、まさに「承認欲求を持つな」に反した結果の悲劇となるでしょう。
 
しかし、科学論文は、承認欲求を競うものです。しかし、STAP細胞は論文のためのものでなく、臨床応用という現実的な成果をめざすものです。
 
今の時点のSTAP細胞が正しいとか、つくりものなのか?ではなく、臨床応用に向けて動き出せる細胞なのか、そうでないかが大事です。そこが、将来、判断されていくのです。
 
これからも、こうした万能細胞の研究は、世界中で進んでいきます。
 
小保方氏は、今回の運の悪さを乗り越えて、今後の研究の継続に向けて、前にすすんでほしいです。
新聞の人生相談欄への投稿である。70代女性からであるが、この女性の夫が50代の時に、脳溢血で倒れてしまい、その後、夫は障害をかかえ長く療養している。

その女性の言い分によると、夫は、50代で倒れてもしかたないような健康に悪い生活習慣であったという。夫が元気だった時は、妻は、夫の女性関係でも悩まされたと言う。

そんな夫だから、案の定、突然、倒れた!と、この女性は表現する。

女性は、倒れた後、障害の残った夫を長く介護していたが、長年待って、やっと介護施設に入れることができた。それまでにも、夫は、何か所かの病院、施設で入院療養を繰り返し、そのたびに、夫は、女性職員に触るなどのセクハラを繰り返し、それが、原因で退院させられたこともあったという。

この女性の悩みは、今回、やっと入所した施設でも、再び、夫がそうした恥ずかしい行為をする事が心配だと言う。

妻にとって、夫のセクハラ行為は、人には言えない恥と感じているので、どうしたらよいか?の相談である。

この人生相談に対する識者の回答は、常識的なものであった。入所施設の職員は、プロであり心配はいらない。あなたの人生は、あなた自身のものであり、悩まないように! であった。

さて、この話、良くある話かもしれない。夫の恥は、妻の恥として、妻も背負うものと、この女性は感じているのだろう。

さて、ここで、この人生相談に答えると仮定してみよう。
 
どうしたら、この女性が楽になるかを考えてみたい。

まず、本当にこの女性は、自らの恥と感じているのか?

それは、妻の恥なのか?いいや、社会はそうはみなしていないことに、この女性は気づいているのか?
妻以外の人たちは、脳に障害のある男性の行為を、妻の恥と思っていないのである。
 
他人にセクハラをする夫に、つらそうな表情の妻をみて、世の中に人は、同情こそすれ、妻が悪いと思う人はいない。
社会は、妻が責任をとるべきものとは思っていない。なのに、妻のみが、責任(恥)をしょいこんでいるのである。

障害者の夫が、職員にさわっても、妻には、どうにもできない問題である。男性の病気の頭は、誰もコントロールができない。男女は、違う生き物なのであり、価値観が同じと思うと、女性はつらくなる。

もし、夫が健康体で、正常の脳の持ち主であれば、妻の恥ずかしさはあるかもしれない。
それは、世間が、なんでこんな男性を選んだのか?と、妻に対して思うかもしれないからである。

この女性は、妻としての建前にこだわっている。女性自らは、この問題に気づかない。

この女性の本音は、恥というより、女性に弱い夫にあいそをつかしている状態と思われる。
しかし、この女性は、そうは言いたくは無い。妻としての務めに反していると思えるし、妻の勤めを放棄したら、自身が情けなくなると思うからだ。
夫と決めた人に、貞節を保ちたいと思っている。愛もあるだろうけど。だけど、そこに無理があるのである。

この女性は、若い時から、夫の女性好きに悩まされてきた。
これは、男女の永遠のテーマであるが、扶養されている妻には、遠慮がある。夫を非難して、悪い方向へ向かうなら、やり過ごすという選択肢の女性も多いだろう。

人は、相手が非難していると感じる時は、素直に相手の言うことは聞けない。上から目線で物言いをされると、無視してやろうという気持ちになる。素直に従えないのである。

親が、わが子を、問題児扱いをしていると、子どもは親の言う事を聞かない。
親子ですら、そうなるのだから、まして、妻と夫なら、なおさらだろう。
妻が、恥ずかしいからやめてくれとたのんでも、夫は聞き入れない。
障害者になった夫にも、プライドがあるのである。

この際、妻は、注意掛けの言葉を工夫してみるとどうか?
「あなたを愛しているので、そういうことをされると、私は悲しい」 とかはどうか?
もし、これで、夫に変化が起きれば、すごい効果である。
さすれば、妻は、「私はとても、うれしいわ」となる。
 
上からのもの言いというのは、言った本人は、気付いていない事が多い。
 
こんなエピソードがある。
テレビノドキュメンタリー番組で登場する若い夫婦である。
夫が転職して、お笑い芸人になってしまった。 
駆け出し芸人の夫の収入は少なく、子どものいる家庭では、生活が苦しい。当然、二人の間にで喧嘩が起きる。
 
芸人の夫は、少しでも収入を得るために、早朝のアルバイトを始めた。しかし、それを欠勤してしまい、結局、バイトを首になってしまった。

妻は、夫をなじるのだが、その言い方が、「勝手に休んだら、会社が困るでしょう!」であった。この言葉に、夫は切れた。

「君ね、ほんとに会社が困るなんて、思ってんの!本気でそんな風に思ってんの?」
と、夫は強い口調で妻にせまった。
 
しかし、テレビ画面の妻は、夫の言い分を十分に理解していない様子だった。

夫は、妻から、上から目線で注意されたことを怒っている。「会社の人がこまるでしょ!」 は、上から目線だ。

仕事が首になった状況では、夫自身が一番、情けない思いでいる、家族にも悪いと思っている。言われたくないのに、妻から言われる。傷口に塩をぬられるようだ。

こうした場面では、妻は、「家族が困るから、私がつらいから、仕事をやすまないで!」と言った方がいいのだろう。

元の新聞の人生の話題にもどって、妻の言い分を考えてみる。この女性の場合は、
「私が恥ずかしいからやめてください」より、
「好きなあなたがそんなことをしたら、私は悲しい!」と言う方が、仲間目線なのだ。
 
妻は、夫の女性癖に嫌悪して、自らのメンタルを悪化させている。
妻は、介護が義務と感じているなら、手抜きを考えるのが、一番だろう。
介護はつらいが、介護中の夫のちょっとした言葉やしぐさに、妻がいやされることがあると思う。
 そうしたものを、みつけていくのもよいだろう。
 
あるべき妻の姿から、距離を置いて、自らのためと思う方が良さそうだ。

女性のメンタルヘルスが悪化すれば、女性の体が悪化して、介護の夫より、妻が先に逝ってしまうこともある。
そうなったら、とても惜しい結果に終わりそうだ。
著書“セラピスト”考 III
 
“セラピスト”の読みどころのひとつは、セラピストとクライアントの間の不信感を、いかにして、信頼感に変えて行けるかのヒントに満ちている点である。
つまり、カウンセリングは、忍耐と才能を要し、大変なことなのだと書かれている。

前回のブログで紹介したように、著者の最相は、臨床心理士の仕事ぶりに、疑問と不信感を抱いている。カウンセラーの平凡さにがっかりしている。しかし、本が進むにつれ、最相は、他人の心を癒すという仕事は、とても難しいことであることを書いているのである。

カウンセリングを受けた人の多くは、実際の目の前のカウンセラーに満足できない。
しばらく、カウンセリングを続けても、だめだ!とあきらめるしかない。
その時、クライアントは、「私の担当のカウンセラーとは、合わなかった。」と思うだろう。
他のカウンセラーなら、大丈夫かもしれないと、新たな期待をする人もいるだろう。

心理療法を希望する時、カウンセリングそのものの難しさを、最初から想定しておく必要がありそうだ。
優秀なカウンセラーであっても、評価には時間がかかる。
だめなら、どこかで、あきらめることも必要だ。あきらめから生まれるものがある。
他人の心に寄り添うためのカウンセリングの難しさに気付けば、その経験は無駄にはならない。

「他人に頼っていても、どうにもならないものなのだ!結局、こう思えるようになったのは、カウンセリングのおかげかもしれない・・・」 と。

カウンセリングが駄目と感じるなら、その人自身で駄目でないものを見つけていかなければならない。
カウンセラーに対し、配慮を示せる人は、結局、自分自身で治す力のある人である。
ネットに、カウンセラーの悪口を書く人もいるが、他人を非難すれば、本人のメンタルは悪化する。
 
短時間の勉強でカウンセラーになれます!という民間の広告があるが、それを出しているような人が、優れた教官であるわけがない。

著書“セラピスト”の話題にもどるが、初対面時の中井は、最相にとっての先生であった。最相は、中井を尊敬し、二人の間には、豊かな時間が流れた。
 
その後に、教授職を退職した中井が、最相に申し出た事は、セラピストとクライアントを逆転させて、絵画療法を試みる提案である。著書の後半では、逆に、中井久夫は、最相葉月から絵画療法を受けている。
 
これは、クライアントとセラピストが相互に尊敬し合えば、その立場すら逆になることができることを示す。
中井は、レポーターとしての最相の力量を認め、中井が、世に残したいと思うことがあったからであろう。

元々、心理療法が機能するのは難しいわけだが、セラピストも、そこを良くわかっている。だからこそ、セラピストは、新しいクライアントを迎える時には緊張するだろう。セラピストは、クライアントの要望に答えられるのか?カウンセリングが効果をあげられるか?に神経をつかい、不安を感じるのである。

著書の冒頭で、中井と最相の絵画療法が書かれているが、この面談は、最相が中井に取材を申し込んで、可能になった。
面談を申し込む際には、最相は中井への尊敬を十分に伝えていたと思われる。
それでも、取材を申し込まれた中井には、不安はあったと思う。
中井の業績を、最相が、どのようにレポートとして書くのか?についての中井の懸念である。
このあたりのことは、著書“セラピスト”には、あまり、書かれていない。

恐らく、中井との面談の間、尊敬する相手を前に、最相は自分のことで目一杯であったのだろう。そして、中井の気持ちを観察する余裕が、最相に無かった。

クライアントが面談室に入ってきてから、帰るまでのすべての行為が、カウンセリング治療の一環である。
セラピストは、クライアントが部屋に入ってくる様子や、挨拶を観察する。最後には、クライアントが満足して帰るか?を見る。そして、クライアントがどこでセラピストに満足したかを考える。どこで不満そうだったかを思い出す。
 
セラピストは、穏やかなやさしい笑みを浮かべていても、セラピストの心は複雑だ。疲れる作業であるだろう。

絵画療法をする中井は、クライアント最相が紙に向かう様子や、作画の躊躇などを見ている。特に、クライアントが最初に線を引く時の躊躇(特に、手のふるえ)などは、注目すべき点ではないだろうか?

初対面時、最相の言葉を借りれば、セラピスト中井の様子は、ひどく落ち着いていたらしいが、中井には、職業人としてのポーズが身についている。しかし、中井の内心には不安はあったであろう。

この初対面の絵画療法の際に、中井の前で最相が書いた絵が、“セラピスト”の口絵で紹介されている。この絵は、中井が枠を書き、その後に、最相が絵を書いている。
 
口絵に紹介されている絵は、中井が書いた枠であるが、枠は少しゆらゆらとゆれているのである。このゆがみは、その時の中井の心の動揺を表してはいまいか?

中井と最相の絵画療法が進んでくると、言葉を交わさずして、最相と中井の信頼感が通じ合う。
最相が絵を書いている間、中井は最相の気持ちがあせらないようと、気づかい、猫と遊んだりしている。
 
しかし、こうした一見、無駄に見える中井のしぐさや時間の取り方は、大事な間(ま)である。最相の様子を観察する手段の一環でもある。
何気ないやりとりに見えるが、ある程度、計算されたものであり、意図されたものである。

絵画療法において、書かれた絵の解釈が重要であるだけでなく、間(ま)や会話などに、セラピストとクライアントの人がらや、性格がにじみでるものがあるのだろう。間(ま)の取り方で、お互いの配慮を感じある。

人が何気なく瞬時に取る行動は、自然に湧き上がるもので、とりつくろいができない。
米国の大統領選挙の際の選挙演説でも、とっさの言葉で、聴衆の心をひきつけたり、逆に、失ったりするものである。瞬時で出る言葉は、その人の本音の心を物語る。

カールロジャースの理論を紹介する文章に、セラピストに大事なのは、理論ではなく、勘であるということが書かれてあった。セラピストとクライアントがかわす会話において、その内容が問題になるというより、むしろ、会話の間(ま) の取り方や、沈黙を続ける時間と、それを破る時のタイミングが大事なのだという。
 

 
 
 
 著書“セラピスト”考 II
 
心理療法に懐疑的だった著者の最相は、ついに、尊敬できるセラピストである精神科医の中井に会うことができた。
 
最相は、中井を尊敬している。中井は、学生時代からフランス語の詩を訳す語学的才能を持ち、サイエンス研究の頭も持ち、精神科医師になってからは、常に、患者の傍にいる人間像だ。

若いうちから、統合失調症患者の病態の臨床研究に熱心に取り組んできた中井に関する情報を、最相は入手していた。
インタビューのために、中井の家を訪れた時の、最相の緊張具合が、良く書かれている。
 
実は、中井は、最相と面談する前から、すでに大きな影響力を持つセラピストになっている。治療が始まる前から、クライアントの最相は、満たされていた部分がある。

そして、実際に中井から、絵画療法を受けながら、改めて、最相は、中井の大きさに感動している。最相の考えていたセラピストのあるべき姿を、中井に見出したのであろう。中井のさりげないしぐさや、会話の間のとりかたに、最相は、中井の深い思いやりを感じるのである。

実際に、病める人に対し、どの程度に、心理療法が、機能しているのかは、わからないが、セラピストに求められるスキルは、膨大なものが期待されているであろう。しかし、クライアントは、望むものの膨大さに、きずいていない。
それは、普通の才能では、果たせないような能力であり、故に、多くのカウンセリングは、機能し難いのではないだろうか?

カウンセラーには、美人(あるいはイケメン)が多いらしい。しかし、カウンセリングが、うまくいかない場合は、容姿が災いすることもあるかもしれない。クライアントは、心の余裕が少ない人たちである。ゆえに、セラピストは、豊かで穏やかな人格と、才能に溢れていることが求められる。

クライアントの知的レベルや志向は、均一ではなく、クライアントの悩みは、さらに多様だ。Aさんには良くても、Bさんにはだめかもしれない。最初、Aさんに良くても、途中からダメになるかも・・・。

大学や大学院で心理学を学んだからといっても、学べるものは微々たるものである。養成学校や教官の質も、一様ではなく、セラピストを養成するに足る実力のある教官は、少ないだろうし、才能ある人が、世の中にそこそこ存在しているとは思えない。

業績を残す心理療法士であれば、周りの教官ですら、飽き足らないのであろう。
ほとんどの一般人は、どんなに受験勉強をしても、東大の入試には受からない事実と似ている。
 
優秀なカウンセラーになるのは、25年かかると言われるらしいが、むしろ、この意味の解釈は、25年間、カウンセラーとしてやれた人なら、才能のある人であるという意味だろう。
 
 中井も河合も、結局、自らで心理療法の手段や、カウンセリングの戦術を編み出している。
 
セラピストが医師である場合は、相手(患者)が、医師という先入観で一目置いてくれるが、カウンセラーは、そこすら、自ら醸し出さなければならない。当然、宗教などに逃げ込んではいけない。

著書“セラピスト”にもでてくるのだが、影響力を残したセラピストは、周りの上司など、他人のアドバイスに満たされていない。たとえ教官からのアドバイスであっても、物足りなさを感じる。
 
悩める人を前にして、その場で、セラピスト自身で感じ取れる、流動的な感性を持ち合わせなければならない。そうした、元々の感性が優れていないと、機能するカウンセラーにならないだろう。
感性を高める努力をすることは、無駄にはならないと思うが、学んで得られるようになるわけではないだろう。

 “セラピスト”では、事例の紹介も豊富だ。

こだわりの強い小1の子どもの治療を、女性カウンセラーの木村氏が、箱庭を用いて治療する経過が書かれている。この問題児は、周りの人への興味がなく、一人遊びしかしない。
 
カウンセラーの木村は、河合学派の女性心理療法士であり、河合から、直接、箱庭療法を教わっった人である。つまり、河合の人となりを語っている。

木村は、箱庭を通じて問題児と会話する。問題児は、全くのマイペースの子供で、同じ箱庭をいつも作る。カウンセラーの木村は、待ちの姿勢である。長い時間と回数をかさねて、問題児とカウンセラーが接点を持っていく。

木村は、この問題児が、箱庭療法を重ねても、全く改善していかないことに悩む時期があった。その時に、相談を受けた河合教授は、他の上司からアドバイスをもらうように薦めた。しかし、この時、上司のアドバイスは機能しなかったのである。少なくとも、この子供の治療に対しては、木村の方が熟達できているからである。
 
つまり、カウンセラーの当事者でなければ思いつかないことがあり、そこに気付くことのできるカウンセラーが、真に優秀な結果を出せるということではないだろうか?

そして、ついに、木村は、それまで大きな変化を示さないマイペースの子どもに、次第に変化が出てくることに気づくのである。ある日、問題児が、カウンセラーの木村に、「バイバイ」と言った。
 
バイバイを聞いた木村が心から喜ぶ。問題児は、そうした様子のカウンセラーに対して、愛情と信頼感を感じ、それを表現できるようになるのである。問題児が、カウンセラーに配慮を示すようになった瞬間だ。
 
子どもは、カウンセラーの木村の笑顔を見て、他人との関係づくりを学んでいく。カウンセラーの木村は、寄り添いながら、子どもの心を開いていくのであろう。

無能な医師、無駄な診療、無効な薬でも、ある程度の間、商売としてなりたつ。
期待してあきらめるまでに、時間がかかるおかげである。
そこまで待って、やっぱりそうか!と悟る。
 
期待が裏切られれば治療は終わるが、又、次の別の人が期待して、治療が始まる。実際のユーザーは、次々と、別人になっていく。
漢方薬や、ヒアルロン酸、コンドロイチンも、そうした類のものである。

目前のカウンセラーに満たされないクライアントは、「しかたない!」 と感じても、しばらく、カウンセリングを続けてくれるだろうから・・・。

人には、元々、治る力を備えており、カウンセリングが機能しなくても、クライアントは良くなっていくことが多い。つまり、心の状態には、クライアント自身が努力していく部分が大きい。

こうした場合でも、カウンセリングが無駄だったと結論するのは、難しく、不可能だ。
カウンセリングをしなかった場合との比較が、できないからである。
 
こうした現状は、カウンセリングに限らず、医師でも、整体師でも、似たようなところである。

続く・・・。
 
本人が修復できない心の病気を、回復させるのは、誰か?回復させると言わないまでも、誰が回復に向けた指導的役割をはたすべきなのだろうか?
 
心の病気を治すための職業人(セラピスト)は、実際の治療の現場で、いかに機能しているのか?
こと、心の病気に関しては、治療効果の答えは、画一的でない。
 
心の病が重症になり、錯乱、混迷などが著しく、生命の危険を伴うようになった人なら、必要とされるのは、精神科医師である。適切な鎮静剤をどう使って窮地を切り抜けるか?、精神科医の経験と力量が試される。
 
しかし、一般的な心の病気の質は、ここまでに至らない。故に、治療法は一筋縄ではない。
症状が長引いて、現行の治療内容が飽き足らない人は、さまざまな試みをして果たせず、治療を中断するであろう。結局、そうした人は、自分で治したと言う。
 
歴史的にも、心の病気の治療は、紆余曲折しながら、今日に至っている。心の治療には、精神分析を基本とする、フロイド、ユングの時代から始まり、医学をおさめた専門者、つまり医師があたった。
 
しかし、医学といっても、当時、脳の構造や病気などに関する医学知識も技術はなく、現在でも、尚、心の病の治療は、混沌とした状態で、人々の模索が続いている。
 
権威や身分が消滅し、社会の構成が変わり、人々の悩みは変わっていった。人が変われば、病気も変わる。
他の体の病気と同様に、心の病気の治療も医師が中心的であったが、変遷が大きかった。
 
特に、心の病気に特徴的だったことは、医師以外の人たちが、治療に参入してきたことであった。これは、他の体の病気の領域では、見られない特徴であった。
とりもなおさず、心の病気の治療は一筋縄ではいかないものであり、それ故、治療が多様化したとも言える。
 
医師以外の専門者(セラピスト)が、さまざまなアプローチや方法を開発し、実際に治療効果を実証してきた。
 
すでに米国では、1950年頃から、悩める人に対し、セラピストは、傾聴、受容で対応する、カールロジャースの提唱する治療法が広がっていた。カールロジャースは、医師指導の治療現場を否定し、非指示的なクライアント中心療法を唱えた。これは、病気で悩む人が中心となる治療体制で、セラピストは、来談者(患者又はクライアント)を見守る。
セラピストは、精神分析などはせず、悩めるクライアントを受容し、指示を出さない。
 
この治療作戦に対して、医師たちは、専門性、指導性が無く、治療とは言えないと批判した。そして、患者又はクライアントは混乱してしまうと、医師らは反発した。
 
しかし、新たに、治療に参入してきた教育系心理学の人々は、医学的治療とは異なる、面談を中心とした心理療法を開発し、それを実践し、成果を上げていった。一方、医師たちは、クライアントとの長い面談を嫌い、むしろ、次々と開発される治療の新薬に、興味がうつっていったようである。
 
外国で評価を得た治療法は、遅れながらも、日本の治療現場に入ってくるが、その際、日本流にアレンジが必要だ。このあたりの経過については、最相葉月著“セラピスト”にくわしい。著者最相氏は、1960年以後の日本の心理療法の発展の経過について、丁寧に取材し、本にまとめた。関係者の証言で構成されたサイエンスルポの形態をとっている。
 
外国で開発された心理療法が、日本の学者により、日本的に改変され、成果を上げる様子が詳しく書かれている。実際の研究者や関係者の生の声を集めているのが、本書の特徴である。
心の問題で悩む事例(患者)も細かく紹介されている。
心理療法に携わった著名人らの生の言葉を、紹介していることが、この本の醍醐味と言える。
 
著者の最相は、レポーターとして、心理療法の開発者へインタビューをしているが、最相自身がそううつ病をかかえていて、いろいろな治療経験をしている。
 
以前、最相自身が、自らの病気を見定めるために、心理学の養成学校に行ったり、実際の心理士などによる治療を受けていた。しかし、最相は、心理士に満足することはなかった。最相は、養成学校にて心理士を目指す人々と交わっても、最相は満たされる事は無かったのである。
 
最相は、本の冒頭で、現状の臨床心理士の、仕事ぶりについて、強い懐疑心をぶちまけている。資格の質や、治療効果が期待できないと感じていた。
いったい、臨床心理士の仕事とは、何なんだ!なんてあいまいな資格と仕事なのだ!と言っている。

何十年の経験蓋かな臨床心理士との面談でも、最相は、心理士に満足できなかった。心理士と話をしても、最相の心は満たされない。会話が核心に入っていかないからである。
つまり、最相が、心理士と話を続けても、治療につながらないと感じてしまうのである。
 
他の心理士との面談の際、箱庭療法を受けているが、その心理士は、比ゆ的なことを多く言って、絵空事のような会話しか、交わさなかった。
 
つまり、心理療法が機能するために、それを実践するセラピストの質が必須なのだ。セラピストは、経験豊かで、理解と配慮を示していることを、クライアントに感じさせなければならない。
クライアントが、セラピストに対して人間的な深みと思いやりを感じることができなければ、クライアントは治療されていると感じない。
 
最相は、自ら、心理学の本を読んだり、心理テストの本も読み学んでいる。絵画療法で、木を書くバウム療法(樹木描画法)も知っている。こうした既成の知識を持つクライアントであれば、セラピストもやりにくいだろう。
彼女より、セラピストが、思慮深く、熟練していなければいけないのである。

この著書“セラピスト”に、何度も登場する有名人は、箱庭療法の河合隼男氏と、絵画療法の中井久夫氏である。河合隼男は、日本の心理療法や臨床心理士の創始者であり、箱庭をつかって心理療法を行った。
 
中井は、絵画療法を用いて、統合失調症の患者の発症や回復経過を調べた精神科医であった。中井の考案した絵画療法のひとつが、枠付け法であった。

クライアントが、これから絵を書こうとする紙に、セラピスト(中井)は、枠を書き入れたり、外したりの作業をする。
絵を書こうとする紙に枠がある場合と、枠の無い場合との違いを通じて、絵を書いている相手の心を、セラピストは探るものである。セラピストは、クライアントの心の状態や性格を観察しながら、治療につなげる。
 
この著書の冒頭は、最相が、実際に精神科医の中井に会う場面の描写である。最相は、ライターだけでなく、中井から直接、絵画療法を受けるクライアントであった。
 
そして、最相が、一流のセラピストの仕事ぶりと治療に触れることにより、心理療法の真の姿を理解してくのである。

続く・・・。
 
一昨日、理化学研究所の小保方晴子氏の会見があった。周りの女性たちの間では、「会見で泣くかしら?」と話題になった。「泣いたらまずいよね」と言う人もいたが、「泣いてもしっかり話せればいいのじゃないの?」との意見が出た。
 
事実、小保方晴子の会見は、その通りになった。茫然とした表情は痛々しかったが、泣く彼女は絵になった。不眠などで、鎮静剤などを服用しているかもしれない。
 
女性たちは、会見時、小保方氏がどんな服を着てくるのかも気になった。実際の会見時の彼女の服は、濃紺チェックのラインの美しいワンピースであった。君島一郎のものか?と思ったが、そのうち、女性週刊誌が明らかしてくれるだろう。
 
そんな高級服が良く似合う彼女は、言葉もしぐさも、お嬢様の気品があった。ちょうど、村上春樹の小説ノルウェイの森にでてくる、自殺した登場人物(ヒロインの直子さんではない)のイメージであった。
村上春樹は、小説の中で、美しい青いワンピース姿の似合う女子大生を登場させたのだが、今回の小保方氏のようなイメージを想像する。青いワンピース姿の似合う女子大生は、村上の憧れの人だったのではないだろうか?
 
小保方氏が割烹着の姿で現れた時、マスコミは称賛した。人目をひきつけた。
ハーバードに留学して、ネイチャーに論文を載せるような才女に興味を持つ人は多い。
 
割烹着姿の彼女のバストはパツンとしていて、男性なら脱がしてみたいと思ったりするようだ。世の男性たちに、こうした志向がある事実は、女性にとっても興味深い。男性の頭は、異なる複数のものを、同時に評価することが可能なようだ。
 
かわいくて、頭の良い女性が窮地にはまった時、どのような知的な弁明をするのか?どのような涙を流すのか?に、本音は何を語るのか?暴露発言はあるのか?について、人々の興味が集まったと思う。
 
会見での彼女は、大きなミスもせず、失言もしなかった。期待された暴露もなかった。日本の女性研究者の中には、バッシングされている孤独な彼女を見て、人ごとながら泣いた人もいるのではないか?ガラスの天井に悩む働く女性は多い。
 
万能細胞など、研究の段階では、まだ海のものとも山のものともわからぬ存在だ。
STAP細胞に再現性がなくても、研究者が出来た!と思った時は、できたのだ。研究とはそうしたものである。
できました!できませんでした!は、判然としなくても、まず、条件を整えて周囲の了解をとり、発表に持っていく。さらに、研究者は仕事を続けるしかないのだ。
 
もちろん、その後、多くの追試が行われて正確性と実用性が検証されていく。細胞には、さまざまなレベルで万能性を保持している。それが隠れたり現れたり、まだ、不安定な部分があるが、それを克服しながら研究競争がされているのだ。研究が成功していけば、不安定さがとれてくる。時間もかかる。ある研究細胞はつぶれ一方で、残る細胞もある。万能細胞は、研究の過程で、がん化などの問題を克服しながら、臨床応用に至るまでに、長い道のりがある。
 
大学の講座には、パフォーマンス学というのがあるらしい。その教授である佐藤綾子氏による、小保方晴子会見に対する論評が、ネットに載っていた。

ネット情報によると、佐藤綾子氏は、記者会見でさまざまな表情を見せた小保方氏に対し、「女優みたいだった」と評したとのことだ。
そして、
どの質問にも同じ声のトーンで応じていた。かなり精神的にタフな印象を受けた」
表情の変化や感情表現は非常にうまい」
小保方氏の場合は「生理的な変化はほとんど見られなかった」

と佐藤綾子氏は、言っていたが、女優のようだの表現は、決して小保方氏をほめているのではない。
 
さらに、決定的なことに、佐藤綾子氏は、手厳しく、
これだけの大問題を引き起こしながら、「できるならば研究で社会貢献をしたい」 と語る小保方氏に対し、
「とても言える状況でもないのに、言い切ってしまうのはとんでもない精神力」
と、アンチな発言をしている。
 
しかし、この佐藤綾子氏の論評は一方的だ。女性教授は、自らの持つ価値観で、他の分野を批判していると思う。知らない研究分野であるとの認識が足らない。こうした論評は、小保方氏に気の毒という気がする。
 
小保方氏が、今後も研究を続けたと思う気持ちは、しごく当たり前である。
 
論文のコピペなどは、日本人の研究者なら、よくやることだ。もちろん、オリジナル研究の実験結果のコピペはまずいが、実験結果以外の、イントロダクション、ディスカッションなど他の論文部分では、一流論文をコピペしながら、オリジナル英文を編み出すのだ。若い日本人、いや世界の研究者が、皆やっている行為である。
 
会見冒頭で、涙ながらに「申し訳ありませんでした」と謝罪した小保方氏を見ていると、彼女は、生まれながらに豊かで好意的な人々に囲まれて育ってきているだろうと感じた。
 
小保方氏は、自らの主張が通る環境で、社会的にも知的にも恵まれた人たちに大事に育てられ、自信も大いにあった。だから、今度のバッシングに反論しようと決心したのだと思う。
 
一旦は負けたふりで、理研の立場をたて、でも研究は続けてねばる、などの長い将来を見据えた策略もあったはずだ。男性なら、ポストと地位を守るために策略を尽くしたかもしれない。しかし、大事に育てらた若い小保方氏には考えられなかったのだろう。
 
この問題、良い方向へと経過してほしいものである。
 
 
70歳近い普通のおじいさん同士が、中華レストランで会話をしていた。
 
彼らは、どっぷり浸かった老後生活の風情で、もう身なりにもかまわず、ぐっちぽい老人同志であった。もぐもぐと語尾が不鮮明な話し方であったが、しかし、彼らの会話内容は、男性特有のするどいものであった。レストランにいた、このAとBのおじいさんは、彼らより若い知人の誰かについて語っていた。
 
Aのおじさん: ○○は、相変わらず一言もしゃべらない。1年前とまったく、変わらない。

Bのおじさん: あいつ、しゃべるようになるのか?

Aのおじさん: いやあー、あいつがしゃべるようになったら、本当に頭がいかれた時だよ。しゃべらないからやれてるんだよ。
 
この会話を聞いていて、アドラーの心理学に出てくる言葉で、“人の行動には、目的が必ずある”というのを思い出した。
 
例えば、ひきこもりを例にあげると、ひきこもりには目的があるとする。
単に、会社に行けない、会社で傷つくのを避けたいからではない。ひきこもりで、多くのチャンスを失うのは事実だが、一方で、その時に必要とする大事なもの(益)を得ている。
 
他人に心配をかけるということも、益のひとつになりうる。ひきこもる自らの意思を通し、周りを認めさせるというのも益のひとつだ。
 
ひきこもる人は、ひきこもる結果に得られる“何か”に依存している。その“何か“を目的とする限り、ひきこもりがつづいてしまう。
 
ひきこもりの原因の”何か”は、人によって異なるし、そこへの依存度も異なる。ひきこもる人は、ひきこもる結果に得られるものを捨て、ひきこもりを止めようと自ら思った時には、ひきこもりは終了する。
 
Aのおじさんは、人と全くしゃべらない噂の人の“困った行動“について、それには目的があると言っていた。しゃべらないという行動をとって、その噂の人はメンタルヘルスを保っていると言いたいのだ。もし、保てる力が失われて、しゃべりはじめたならば、本当に頭がイカレタ時!だ、と言っていた。
 
ひきこもりや登校拒否などを治療している過程で、精神科やカウンセラーなどの治療者の行為で、クライアントが自殺してしまうことがある。思わぬマイナスのイベントを招いてしまうことが起きうる。
 
登校拒否の子どもが、学校に行くようになり、親やカウンセラーが、やれやれと思った時に、子どもが自殺したりするのである。
 
ある人の行動が、他人から見ると、困った行動やこだわりであっても、それをしている本人にとっては、何か大事なメッセージであったり、志向であったりする。困った行動やこだわりをすることで、メンタルヘルスを保とうとする努力の部分があるのだろう。
 
困った行動には、そこに至るまでの長い葛藤がある。女性が、夫に抱く葛藤にも、口に言えない長い間の環境があるのではないかと思う。
 
新聞の書籍紹介欄に、ある作家の随筆集の紹介記事があった。
 
紹介内容によると、随筆集は、作家が日常の苦しさを見つめながら、老いて死ぬことを直視して書いたものであるという。
 
老境に達した作者は、日常的で解決できない苦しさに直面していた。日常的な苦しさのひとつが、妻の病気であった。妻が原因不明の慢性の痛みを訴えて、毎晩、苦しくて泣き叫ぶのだそうだ。それを聞きながらも、どうすることもできない夫も、又苦しんでいた。
 
この人の妻の病気が何であるかはわからないが、この女性を例にして、女性の苦しさについて想像を膨らませてみる。
 
作家である夫は、いつも思索し、妻が入り込むすきはない。作家の妻となった女性は、夫のとの間に深い溝を感じていたのかもしれない。この妻は、夫の関心を見つけようと長いこと、葛藤し続けたのかもしれない。
 
メンタルに苦しいことを抱える女性は、体の痛みに訴えることがある。医師は、こうした原因不明な痛みを心因性と扱い、抗うつ剤を投与することがある。
 
医学的な痛みは、炎症の結果である。炎症の結果、機能障害が起こる。つまり、痛いだけで、体が変化していかなかったり、検査が異常にならないタイプの痛みに、医師は疑問を感じるようになる。
 
何か炎症による痛みであれば、だんだん、体が働かなくなるはずだ。しかし、メンタルな痛みでは、そうした障害は起きにくい。夫は医師から、こうした説明を聞くかもしれないが、妻は納得しないだろう。
 
妻がこうしたメンタル障害を抱えれば、妻の免疫は低する。体内に潜む慢性のウイルス活性化もあるかもしれない。とにかく、女性の慢性の痛みについては、多様な状況があると思う。
 
女性の希望がかなわぬ時、女性は、体の症状を出しやすい。いわゆる身体表現性不安障害である。
 
女性は、自らの主義主張を認めてほしいと感じている。満たされない女性に、この病気が多いのは、当然と言えるだろう。生活の糧を他者に依存した女性の毎日は、不安の連続と言っても良い。良い妻でありたい、がまんできる妻でありたいと望む一方で、それが苦痛で、気持ちが破たんしてしまう。
 
生涯の人と決めた夫に対して、夫の相手になれていないと感じてしまう妻の苦しさはいかばかりか?妻は、自らが夫にふさわしくないとした劣等感を感じてしまうかもしれない。そんな状態の妻にとって、他の女性の存在がちらつく時、ますますメンタルが異常になってしまう。孤独を感じる妻にとって、夫の気持ちをつなぎとめる手段として、体の痛みが出てきてしまう事は容易に想像できてしまう。
 
病気は、てっとり早く、相手を振り向かせる手段となりうる。痛みは、他人にはわからず、自己宣告である。痛みとはその人自身が感じる症状であり、誰もが否定できない。つまり、自己主張の最たるものである。

物を書く人の妻になった人は、孤独だろう。結婚後、子どもにも恵まれ、ひととおりの子育てが終わってしまえば、夫とは思考レベルにおいてギャップが大きさと感じるだろう。
 
もちろん、そうしたギャップに悩まない女性も多くいるだろう。
 「彼は商売なのだから、頭が良くて当然よ!ハハハ」と笑い飛ばす妻もいる一方で、真剣に悩む妻もいるかもしれない。強い劣等感を抱く女性は、長い間、傷ついてきたと思う点があるのかもしれない。
 
妻の体の痛みに対し、夫は、最初、心配してくれたりするだろう。しかし、妻の痛みが慢性化してくると、夫の関心も薄れてくる。まして、医師からメンタルによる痛みなどと説明を受ければ、夫も戸惑い、困ったものだと考え始める。そうなると、妻はますます痛みを強く主張するようになる・・・。妻の痛みは、夫に対する切なる要望の手段である。

心理療法の箱庭、絵画療法などにおいても、その療法を試みることにより、クライアントが興奮したり、落ち込んだりしてしまい、治療が悪い方向へ向かってしまうことがあるようだ。
 
 
“徹子の部屋”で、歌劇蝶々夫人を放映していた。
西村知美氏ら一流の音楽家たちを、そろえた演奏会の映像であったが、この日、ナレター役の徹子さんは、なぜか、興奮していた。
 
徹子さんの企画だったのか、長寿番組へのごほうびだったのかわからないが、徹子さんは、蝶々さんの悲しい運命を、涙ながらに語っていた。徹子さんの脳裏には、“日本女性への侮辱”という感情があったのかもしれない。
 
最後は、徹子さんによる絶叫的なアリアというか、アリア的絶叫というか、徹子さんの叫びで締めくくられた。彼女によいしょ!という感じの番組構成であった。
 
歌劇蝶々夫人のストリーは良くしられている。
簡単には、明治の頃、上官について来日した西洋人が、日本の蝶々さんと結婚した。夫が帰国し、蝶々夫人は残されてしまうのだが、蝶々夫人は結婚したつもりでいたので、夫の帰国を信じていた。
長く待たされた後、ついに、夫(ピンカートン)は、帰るのだが、その時には、同国人の妻をつれて来たのである。そして、無神経にも、妻と共に、蝶々夫人を訪ねた。自らが妻と信じていた蝶々夫人は、侮辱を受けたと判断して息子を残して自害して果てる。
 
悲しい運命に散る蝶々夫人は、死の直前に有名なアリアを歌う。夫を待つ期待で歌う楽しいアリアと、死ぬ前の覚悟のアリアを、対比させる。美しい歌声が、人の涙をさそうようにオペラは構成されている。
 
蝶々夫人の自害は、その時代の教育の影響によるものが大きかった。男性支配の価値観は、夫をすべてとし、女性の自己判断を奪い、を窮地に追い込むものであった。男性が女性支配するには便利な考え方ともいえよう。
 
現代でも、今のイスラムの女性にそうした価値観が残っている。イスラム女性が寡婦になったら、その後一生未亡人であり続けるらしい。夫が人生すべての価値観を、女性に植え付けている。
 
イスラム未亡人の女性のこの苦しさが、自爆テロの温床になっているという。
残された女性は、「もう私はどうなっても良い!夫を奪った奴がにくい!」との自暴自棄の窮地に追い込まれ、テロを実行させる。蝶々夫人も、名誉を傷つけられた人間は死ぬべしとの思想を、親から受けて育っていた。

さて、このストリーは、現代を生きる子どもたちには、どのようにうつるだろうか?

今の学校教育であれば、人はどのような逆境でも強く生きることを教えることだろう。
 
このストリーは、どう幸せに生きるか?を考えるための教材に満ちている。又、学校教育の場に限らず、大人が心理学や幸福を学ぶ時に議論する時のための課題を提供している。

なぜ、蝶々夫人は死ななければならなかったのだろうか?
 
蝶々夫人が強く生きるためには、どう、考え方を持つべきだったのか?
 
蝶々夫人は、港に船が入り、幸福の絶頂で「ある晴れた日に」を歌う。その後は、「かわいい坊や」を歌い、さらに、「生き抜くために」と歌う。そんな風でもすばらしい作品になりそうだなあー、などと、私は勝手に想像する。
 
死ぬ事を止めた蝶々さんが、生きるためのアリアを歌うというのも、現代的で良いのではないかと思う。
 
人の幸福論を論じる時に、アルフレッドアドラーによる個人心理学が、最もふさわしい答えが引き出されると思う。個人心理学と訳すると、ぼけてしまうが、人生の幸せは、個々の人でつくりだせるものという考え方が、アドラーの個人心理学だ。
 
アドラーの説は、人の考えや幸福感は、個々の人に根ざすとするもので、個人がどう考えるかで、幸せを作りだせるとする。つまり、アドラー心理学では、幸福の追求過程として、蝶々さんは、立ち直らなければならない。立ち直ることが、人としての追求すべき課題である。
 
そうした意味で、蝶々夫人の自害の行動は、悪い例を提示することになる。蝶々夫人は、自らを第一とすることができずに、他人の価値観にふりまわされ悲しい選択肢をしてしまった。
 
アドラー心理学では、幸福になる鍵は、本人が持つ。幸福の鍵を握るのは、他人ではない。そして、他の人が幸せになろうとする判断に、自らは介入しないと説く。
 
アドラー心理学では、人々をとりまくもろもろの人生課題について、自と他を分離するように勧めている。課題の分離とは、自分が考えたり行動することと、他人が考えたり行動することを、切り離せという教えである。

相手(ピンカートン)が、自国の女性と結婚したのは、彼自身の選択であり、それは彼の問題である。
そこに蝶々夫人が影響を及ぼせなかったのは残念だが、蝶々夫人の問題ではない。介入できない課題なのである。振り回されるのは、不幸を呼び込む。
 
彼にとっては、自国民の彼女の方が蝶々夫人より良かったのである(課題の分離)。
つまり、蝶々夫人は誤解をしており、それを知った時には、そこに執着してはいけない。他人の課題には介入しないのが、個人の幸せを追求するために必要である。
 
裏切られた蝶々さんは、つらく苦しいことがあっても、自らが幸せになろうとする気持ちや努力は持ち続けなければならない。
 
決して、蝶々夫人自らの存在そのものが、名誉を汚されたわけではないと、蝶々さんは考えなければならない。
 
この経験を生かして、次の失敗を避けていくスキルとしなければならない。
 
(夫が帰ってくると)勝手な誤解をしていたのは、蝶々さんのミスでもある。蝶々夫人が結婚したと思ったのも、誤解であった。
 
蝶々夫人は、相手(ピンカートン)も思ってくれているはずと想像したが、現実はそうではない。だから、自らは誤解していたと悟り、相手の選択肢には介入しない。
 
次のステップは現状をどう乗り越えるかが大事だ。蝶々夫人が、自身をどう考えて、ダメージを最低限にするかは、彼女の大事な次の課題となる。
 
しかし、蝶々夫人は、自らを滅ぼす行為に及び、残された人に、最大の不幸を呼びこんでしまった。残された子ども、夫(ピンカートン)にも、重いつけを残した。アドラー心理学では、最も望ましくない解決策であった。
 
アドラー心理学は、蝶々夫人の自害後の、夫(ピンカートン)の心は問題としていない。ピンカートンは、忘れてしまうかもしれないし、どの位、トラウマとして残るかもわからない。
 
そこは他人の課題であり、蝶々夫人の課題ではない。所詮、他人の心は、分離すべき課題の一つにすぎない。
 
当時の日本が、まだ欧米なみの力を備えていないからこそ、日本女性も軽く見られていた。
 
当時の時代背景は、日本は西洋とは同じレベルではなく、富や文化レベルは、西洋よりはるかに低レベルであった。そんな時代に生きた蝶々夫人は、彼女個人の名誉棄損というより、日本そのものの評価が低い故に起きたとばっちりでもあった。
 
西洋人からは、当時の日本は野蛮な国という印象だったであろう。開国後の日本は、西欧文化に追い付け追い越しを続けた。明治や大正に名を残した作家は、いかに西洋の知識を持っていたかが問われていた。
 
永井荷風は、“わがフランスよ!自分は御身を見んがために、この世に生まれてきたごとくに感じる”と言っている。この頃の知識人は、フランスやアメリカにべたぼれし、いかに世界的価値観や教養を身につけるかで競争をしていただろう。
 
夏目漱石の“吾輩は猫である”は、高い教養があるとされる知識人の裏側を、あばいた内容である。その暴露作業を、猫にやらせた。
 
吾輩は猫である”が、一般人をひきつけた理由は、当時の人々は、強い憧れを西洋に持っていたことが背景にあるだろし、同時に、一般人は、知識人に対してジェラシーと強い皮肉の思いがあったのだろう。
 
今の子供たちには、あれこれ説明しないと、こうした時代背景は理解しないと思う。
社会規範の殻をかぶり、真実を見ない人
既成の道徳の鎧によって、生きた心の動きを被っている人
 
1月12日の本ブログに、河合の文章を載せた。河合は、建前を重んじて現実を見ない女性を、既成の道徳の鎧を着た人と批判的に表現している。
 
しかし、女性がそうした思考回路になる理由は、女性の置かれた環境や立場の影響があるのではないだろうか?
「道徳の鎧」を身につけて融通がきかない」 との女性批判は、河合の男性的思考回路から来るものなのだと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/solid_1069/11662920.html
 
では、どんな状況の女性が、社会規範の殻をかぶり、真実を見ない人なのか?

「浅田真央は、メダルもとれなかったのに、なんであんなに大騒ぎするの?」との意見について考えてみよう。
実際に、マスコミに、こうした浅田への批判の投書がある。
 
こうした人は、河合の言う 「既成の道徳の鎧によって、生きた心の動きを被っている人」 かもしれない。
しかし、女性の立場にたって、もう少し考えてみたいと思う。
 
浅田真央は、人々を感動させた。メダルを取らなくても、マスコミは大騒ぎをした。
それは、彼女の演技が多くの人の心をとらえたと、マスコミが確信しているからである。
 
スポーツは、人の技を見て楽しむものだ。その技がすばらしいとマスコミは確信し、大騒ぎをしているのだ!マスコミには、この映像のレベルが高く、収益となることがわかる。
マスコミは、人々が求めるものに、極めて敏感だし、それが商売でもある。

実際、氷上の浅田選手は、いつも強く美しいし、今回のソチのファイナルでは、とても難しい事を成し遂げた。
 
しかし、その難しさを理解しない人はいる。人はすべて、その人の物差しで判断するので、世間が浅田選手をなぜ称賛するのかの理由が分からない人がいるのである。
 
今回の浅田を評価しない人では、評価の物差しは金メダルを取る事なのだろう。
一流選手は、プレッシャーがあっても、乗り越えられるはずと考えている。大事なショートで大ミスしてしたら、名選手の資格が無い!と思っているだろう。結局、極めて困難なことにチャレンジしているとの評価が薄く、人がやることへの想像力が足らないのだと思う。
 
大ミスしたからこそ、翌日の浅田の演技にさらなるプレッシャーが加わることが想像できない。だから、重いプレッシャーを乗り越えた完全演技も評価できない。
 
今回の浅田を評価しない人では、世間の評価の視点が変化しても、そこを追う事ができないのである。あえて、世の趨勢を追いたくないと考える人もいる。他人とは違う思考を選ぶ人もいるが、今回は、こうした人を論じていない。
 
もし、女性の短い物差しを誰かがなじったら、その女性は怒る。
女性は、自らの短い物差しを自覚できないからこそ、怒るのである。
 
一般論だが、受け身で生きる女性は、できないことを迫られる機会を逸してしまう。右か左かの判断をつきつけられる機会が無い。
 
人から非難される状況になっても、自らで分析して悩みを解きほぐすことができないのである。
葛藤を自己解決できないでいると、その先にある被害妄想へとつながるリスクがある。
 
しかし、自らの人生の物差しの短さを、自覚さえできれば、被害妄想を回避しやすい。
 
無理して、急いで物差しを長くする必要は無い。想像や実体験をして、自然と物差しは長くなる。
物差しを長くするには時間がかかるし、本人の努力が必要だ。
 
しかし、しっかりしたやさしい夫がいる家庭婦人は、短い物差しで人生を過ごせたりしてしまう。
 
寛容な夫であれば、妻に想像力の欠如があっても、あきらめてつきあってくれる。しかし、男性自身の労働環境が苦しくなり、夫のメンタルヘルスに余裕が無くなると、無理解な妻の行動にイライラしてしまうので、妻のメンタルヘルスも悪化してくるだろう。今は、中年過ぎた夫の雇用問題が大きいようだ。
 
たまたま、修羅場の無い順風満帆の人生だったら、女性にとって、良い人生と言えるかもしれない。
 
しかし、世間知らずな女性、真実を見れない女性、想像力を欠く女性は、男性からは、非難の対象である。
 
口うるさい男性評論家が、こうした女性を評価して、「既成の道徳の鎧を身につけた人」と非難するかもしれない。
 
医療現場の話に例えると、医師はなんでもできなければいけないと思っている患者さんがいる。
病気を診るという作業が難しい事が理解できないのである。
こうした思考の患者さんは、
  誤診された、
  こんなになるはずがない、
  助かったはずが助けられなかった!  
と悔しい思いにかられて、苦しい思いに長くとりつかれてしまったりする。訴訟に出る人もいる。
 
短い物差しで判断したことで苦しんでしまうのである。
しかし、自らの物差しを変えることにより、悩みが救われたりする。人が最大の努力をしたことであれば結果を問わず、お互いに認め合うというのは、人間共通のルー-ルである。
 
人生で起きるすべての問題に対して、物差しを長くする事などできない。すれば、身の周りの現実の出来事に対し、少しでも物差しを長くしたい。それが、心の負担を軽くしていく。
 
浅田真央の演技の話題に戻るが、彼女は、演技後、あふれる涙を落とすまいと上を向き、首が後ろに落ちた。そして、後の首をしばし元にもどせなかったようだ。つまり、浅田選手は、その位、感情が高ぶり、体のコントロールがきかない状態になったと想像する。

大きなプレッシャーと不安を克服し、重い責務を果たしたとの彼女の万感の思いが伝わる。聖なる映像だ。
 
しかし、私が気になるのは、この涙の浅田真央の写真が、一社のマットレスの宣伝に使われている現状である。
 
公的な映像への許可は、もっと規制があってもいいと思う。彼女の写真の使われ方が不快であると思う人は少なくないだろう。
 
マットレスで眠れるとかの評価は、個人的なもので、思いこみが働くものである。これに、浅田選手の涙の映像は不釣り合いだ。暗示効果を誘導する過大広告に見える。批判はあっても、新聞に出してしまえば勝ちだ。彼女の映像効果で、素晴らしい眠りを保障するマットレスとの誤解の刷り込み効果を狙ったものだ。
 
 
新聞の新番組紹介欄の情報によると、家政婦は見た!という番組が始まるとのことであった。以下(赤字)は、新聞の紹介文章である。
 
登場人物は皆意地悪なのは、この作品ならでは。家政婦沢口の性格も例外ではない。どこかで家庭を崩壊させようとしているようにふるまっている。
(家政婦が)基本的には、家族がひとつになって仲良く幸せに過ごして欲しいと思っているようで、実際には家族の傷口に塩を塗るタイプの女性
 
これはドラマなので、誇張されているのだろうが、実際に、心と行動がうらはらな日常生活を送る人のメンタルは、どうだろうか?と考える。
 
意地悪をすることは、疑いもなく、本人に、とても悪い影響を及ぼすであろう。
 
嫌いでたまらない相手に対して、従順で尊敬しているふりで相手に従う。こうした暮らし方が長く続けば続くほど、いろいろな不快な症状につながりそうである。心と行動のギャップは、本人が本人を傷つける状態だ。
 
うつ、不眠、いらいら、性格異常、ヒステリー、めまい、体の違和感などにはじまり、妄想、行動異常となることもあるだろう。その関連に、本人自身で気付いているか、そうでないかの程度は、その人次第で異なる。

雇い主から、人格や感情を無視される使用人、
夫からバカにされ続けながらも、結婚生活を続ける妻、
怒られながら、軽んじられながらも、雇われ続ける状態など。
 
紹介のテレビドラマにある、善人を装って、雇い主に意地悪する人生と同じだ。

ドラマであれば、雇い主が悪い人である必要がある。そうでなく、雇い主が善良な人格者だったら、ドラマにならなくなる。
 
家族が仲良く幸せに過ごして欲しいと思っているようで、実際には家族の傷口に塩を塗るタイプの女性が、もし、実際に身の周りにいたら、人々はがまんできるだろうか?
 
特定の人から意地悪されたら、人々は気付く。最初はだまされても、結局、見抜ける。
そして、こんないやな奴がこの世にいるのかとあきれるだろう。
 
主人の傷口に塩を塗る行為をしている本人自身も、自分自身に嫌気がさして、その人自身が、一番、傷つくことになりそうだ。自分自身の良心に対して裏切り行為をしていると、自らのメンタルヘルスに及ぼす悪い影響が大きいのである。
 
現実に生きる人なら、我慢の人生は、どこかで切り上げた方が良い。
仕事を止める、雇われるのをやめる、離婚するなどの選択肢である。

昔は、身分が厳しかった。
越えられない社会階級の中で人々は育った。そして、昔の人は、がまんができた。選択肢も無かった。
「私だけでない!」と、周りの人のがまんを見て、生きられた。
殿から切腹の指示がでたら、家来は死ななければならなかった。
 
昔の映画には、丁稚が番頭に怒られたり、女中が主人からバカにされたりの場面はよくある。使用人は、ご主人とその家族のご機嫌を精一杯とっていた。御主人を怒らせたりしたら首になってしまう。
 
1980年代の映画「細雪」は、多くの名優をそろえ、映像美もさることながら、佐久間佳子、吉永小百合の美しさを余すところなく映し出した作品である。
 
この中にも、わがままな女性たちに、必死につかえる使用人(女中たち)が丁寧に描かれている。原作者は、使用人に温かい目を向けていた。
こうした使用人たちの生活の知恵や感情表現は、映画のみどころでもある。弱い立場の人間を温かい目で見る視点で描かれる。こうした場面で、映画のメッセージ力は増す。
 
他の小説やドラマで、丁稚や女中が出世して、主人と逆転するストリーになるものがある。
苦境にあった使用人が努力を重ね、成功して金持ちになるサクセスストリーは楽しく、人々は好んでストリーを追う。
 
そして意地悪だった元主人が、反省する、改心するとかの展開も良くある。
しかし、元の主人に対する復讐が展開されるストリーづくりもある。
その復讐がどぎつ過ぎると、読者は嫌気がさす。復讐は、小説やドラマの主人公にはふさわしくない。
人々は、努力せず威張る人、怒る人が嫌いである。これは、社会に存在する人々の普遍的な価値観というものかもしれない。
 
では、個人主義の外国ではどうであろうか?
 
享楽的で贅沢な暮らしの主人公の父子は、南仏の避暑地の別荘で、若い女性の姉妹を雇う。この姉妹が、雇い主に対し、反抗的な態度を示す様子が出てくる。使用人の姉妹が、愛人家業の女性を軽蔑し、いやがらせをしたりする。
 
ホームパーティでは、給仕役の姉妹が勝手に酒をぐいぐいのんでしまう場面などがでてくる。
つまり、この使用人姉妹は、自らの価値観に正直に生きているようである。
 
使用人姉妹は、贅沢な暮らしにジェラシーを感じながらも、自らの価値観をしっかり持っている。雇い主に批判的な気持ちを持っていることを隠そうとはいていない。尊敬できる女性に対しては、従順である。
 
使用人だが、ごまかさない生き方のようだ。1950年台の作品と言え、すでに、個人の尊厳が大事にされている印象を受ける。

もっとも、この映画自体が、享楽的な生き方に対して、批判的な目を向けている作品なのであるが・・・。
 
この映画に主演した、お金持ちでわがまま一杯のお嬢さん役を演じた女優ジーンセバ-クは、その後、自殺している。映画の中での彼女の暗い表情を見ていると、感慨深い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0
 
もっとも、社会格差の厳しい外国では、使用人が、主人の食べ物に鼻水をおとしたり、咳をふきかけるとかの嫌がらせ行為があったようだ。
 
人々が格差の社会を生きた結果、多くの人々は身分の無い社会を望むようになった。
雇われる人は、多くの権利を持ち、雇う側は多くの義務がかせられている。
今は、人を雇うことがとても難しい時代になっていると思う。しかし、人々にとって、良い時代になったことは確かである。
 
我慢の人生は、メンタルヘルスを傷つける。
昔よりはずっと改善された社会環境のはずなのに、新たな悩みも出てきた。権威が消滅し、人々が、あきらめたり、がまんすることが難しくなっているようだ。