昔から、自分の考えていることは他人にはわからないし、他人が考えてあることは私にはわからないということが、頭で理解できても、もやがかかるような感じがしていた。私以外の人は、たとえ家族であっても全く違う日常を過ごしているのはなんだか不思議だ。
そんな私は昔から国語の小説問題の「この時の主人公の気持ちはどれでしょう。」が全く当たらなかった。
当たると書いてある時点で、すでにわからないものだと言っているようなものだが、感じ方はもちろん人それぞれでも、国語には答えがある。
答えがことごとく合わない。国語の先生も呆れていた。高校生の頃のことだ。
幸いにも数学や理科が得意だったおかげで受験は乗り切ったが、国語は最後まで鬼門だった。
大学生あたりで、ふと私は人と感じ方が違うのではないかと思い始めた。しかし、普通が何かをどうやって学べばいいのだろう。小説はよく読むが、おそらく読んで感じた内容は世間の人が感じるものとどこかズレてるから、こんなことになってるのではないか。そう思った。
映画を見てみた。しかし、映画でもよくわからなかった。
私のような集中力のない人間に、平坦な日常の中に小さな花が咲いているような映画はみれないので、アクション映画とかドタバタコメディ映画になってしまうからだろう。
喜怒哀楽の喜怒はそこまで外していないはずだ。一方で哀楽側だが、ここは問題がありそうだった。
その感性は不謹慎なほどズレていなければ、そしてそれを表出しなければおそらく問題にはならないのだが、こういう感性がずれている人間は無意識にそれを表出してしまったり、いらないことを言ってしまうのだろう。
なぜなら、わからないから。
私もおそらく学生時代、そういった面もあったのだろうと思う。
大人になったいま、きちんとそういう自分の至らない点を理解できるようになってから、人間関係は豊かになったし、私の物事の捉え方も個性のひとつとなったと思っている。
ただ、これは自覚し、自分で変えなければ、年を追うごとに、他人との距離は遠くなり、社会から分断され、また間違った感情の解釈に拍車がかかりそうである。
他人が何を考えているかわからないこそ、伝えないといけないが、伝えなくていいことは伝える必要はないし、わざわざ他人の考えを全て知る必要もない。それが自他境界なのだろう。
今でも、おそらく国語の問題の答えはあんまり当たらないだろうが、学習によって日常生活に大きな問題はないので、これでよいのだろう。