ここ数年のAiの発達は目を見張るものがある。
仕事で使用してても、かなり精度が上がり、正確性が増していると感じる。
旅行の予定も立てられるし、自分の人生相談もできるし、資産運用なんかも相談できてしまう。
持ち歩ける友達、持ち歩ける専門家のような感じだ。
人生相談をAiにすれば、最適解が見つかるのではないかと思ってしまう。Aiに頼れば、自分の性格に合わせてカスタマイズされた最適なプランを提示してくれて、それに従っていれば、大きく外さない人生を生きられるのではないかと思う。
でも、それは宗教に通ずるものがある。
宗教といってもいろいろあるが、この場合は金銭や行事などで日常生活に大きく食い込んでくるタイプの宗教だ。こういった宗教もはじめは自分で考えて飛び込んだとしても、だんだんそこにいるだけで向こう側のペースになっていく。
Aiだろうが宗教だろうが、はじめは自分から飛びこむことには変わらないだろう。しかし、そのうち向こうのペースとなっていき、自分で考えているようで考えていない状態になってしまう。
とてもこわいことだと思う。
Aiに人生設計を頼み、その通りに生きたとしたら、私が私であるアイデンティティはどこにあるのだろうか。今はまだそこまでではなくても、あと10年もしたらそういう時代になるだろう。
より精度の高いAiを使うことで、きっと私たちは意図せず自分の人生を明け渡してしまうかもしれない。
そうなれば、私たちは何のために生きるのかわからなくなってしまうのではないか。しかし、そこまで人生を明け渡してしまえば、何のために生きるのかなど考えることもないのかもしれない。きっとAiが答えをくれるだろう。
私が私たる所以はどこにあるのか。
考え、思い悩み、時に苦しいこともあるけど、楽しいことや幸せなこともあり、その一つ一つが私の糧となるからこそ、私は私であると言える。
そういうものが希薄になれば、きっと人生とは空虚なものになるのだろうが、それすら気付かれなくなる未来があるのだろう。
そのうち、その人の生まれ持った身体能力や知力を計測できるようになるだろう。そうなれば、初めから苦手なことに対して努力すらしなくなるに違いない。
時代の転換点はいつもその場でははっきりわからず、振り返ってはじめて気づくものだが、今まさにその渦中にいると感じる。
そんな時代の流れを私らしさを失わず、見つめていきたい。