国を代表する電力会社が、自分たちでは制御しきれないものを
この地震大国日本に沢山作り、しかもそれが壊れたときには
たくさんの被害者と死者が出る恐れがある。
国民がいやだと声をあげても、国や会社の勢力に押し流されてしまう。
自分以外の人間は、人ではないの?
生命の重さって、何?
知らない人なら、どんな理由で亡くなっても平気なの?
そんな、今ここで起きている現実についてお話しようと思います。
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3/15の夜から 京都の羊の原毛屋スピンハウスポンタさん内
プチハウス等持院に避難させて頂いています。
一家三人で、福島県郡山市の被災地より逃げてまいりました。
今から ここに記す内容が、ひとりでも多くの方たちの意識付けやきっかけ作りの
糧になればと思い、思いのまま記します。
途中、間違った情報、扇動だと感じられた方、気分が悪くなられた方は、そこで
読むのをストップしてください。ご自身の責任下で、この文章を消化ください。
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3/11 震災が起きた時、自分と2ヶ月の子供の身を守ることで精一杯でした。
近所に同じお母さん仲間がいたため、すぐそちらへ向かい、度重なる余震をやり過ごす事ができました。
地震以上に、鳥肌が立つほど恐怖を感じたのが 福島原発の事故のニュースでした。
福島原発は、今年で 40歳。 「廃炉の年」と言われていました。
作られた当初、炉の使用期限として予定された年数が この40年という数字だったそうです。
しかし、去年より 福島原発では 廃炉を実施することなく、そこに更に負荷のかかる
プルサーマルの稼動を開始していました。
そして、すでに海外ではプルサーマル稼動により恐ろしい事故がおきているということを、
繰り返し情報として受け取っていました。
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周囲の友人・知り合いは この事故がおきるもっと以前より、反対活動を
行っていました。実際に私が会話として聞きはじめたのは去年からです。
2010年5月2日に アースデイ郡山
を開催し、地球と自然への感謝を表すとともに
自分たちが災害時できること、また原発の恐ろしさを一般の方にも知っていただけるよう
お祭りの形で表現するお手伝いをさせていただきました。
勉強会の中で 元原発関係者の方のお話を伺う機会がありました。
「地震が起き、津波が発生し、海水の水位が低下したとき、
炉の冷却機能が失われ、事故につながる可能性がある。
これに対しての危機管理や対策も取られずに、原発は稼動している。」
それが現実だとのことでした。
まさか本当に、その予測どおりの事態が起きるなんて、その時は考えられませんでした。
逆に、自分の生活や安心を脅かされ、扇動だと感じてしまったぐらいです。
このような下敷きがあり、事故が起きた時、私はTVのニュースや周囲の反応以上に
恐怖や危機感を感じました。
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家族や、親戚、主人を説き伏せるのに時間と労力がいりました。
友人たちは次々に避難していきます。
「はやく、今いる場所を離れて」
「子供連れだから、まだ動けないよ」
そんな会話を何度も繰り返しました。
まだ2ヶ月ちょっとの子供を連れて、この震災時に、ガソリンも入れられないのに、
目の届かない、どこかへ出かけるなんて。ものすごく決断力が要りました。
「どうして焦るの?死ぬときは死ぬときなんだから」という言葉には、胸が裂けました。
一生懸命、生きよう、大きくなろう、としている小さい命を目の前に、
逆に、今ここで生きることに執着し、守らないといけないんだと心底感じました。
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3/14 仕事から帰った主人をせかし、栃木の友人宅へ移動しました。
夜間のため比較的、車もすき、結果的にスムーズにつくことができました。
ガソリンが入れられない恐怖と、いつまた揺れるかも知れないという危惧、
まるで賭けのように子供を連れて家を飛び出してしまった恐怖で硬直しながら、
それが子供に伝わらないよう、自分を抑えての移動は本当につらかったです。
事故のあった原発から郡山へは直線距離が60キロ。
那須へはおよそ100キロの距離がありました。
まず、40キロ離れただけでも、本当に安心しました。
栃木の友人の方は、すでに奥様と子供をご実家の岡山へ避難させた後で、
「栃木でよかったの?(もっと逃げなくていいのか)」という質問をしながらも、
とても明るく暖かく、快く迎えてくれました。
友人の笑顔を見るだけで、心が癒されてほっとすることがありますね。
それは震災時でも、変わらず一緒でした。
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翌日、福島での被害拡大、そして茨城県の東海村の原発からも放射能が漏れていると
ニュースを見た主人は、大きな決断を下してくれました。
その日は仕事休みで翌日出勤の予定だったのですが、そのまま車を友人宅に置かせてもらい、
荷物を最小限にまとめ、タクシーで近くの那須塩原駅から新幹線で、京都へ移動しました。
タクシーの運転手さんは、暖かく話をしてくださって、ここでも私は人の優しさに助けられました。
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新幹線の中は、赤ちゃんや子供を連れたおかあさんがたでいっぱいでした。
隣に座った方から、「原発のニュースが流れる前に、地震直後、このメールが関係者から来たのよ」と
見せていただいた携帯電話のメールには、「顔と手をなるべくださないようにして、早く逃げるように」と
記載ありました。
仕事を放り投げてでも、車を捨ててでも、衣類の替えがなくなろうとも、明日どうなるかわからずとも、
逃げるという決断を下して、本当によかったと、このとき思えました。
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そろそろ京都につくというころ、宿をとろうとしていた私たちに、
友人のツテで羊の原毛屋スピンハウスポンタさんへの宿泊紹介がありました。
夜遅く訪ねたのにもかかわらず、暖かく迎え入れてくださって、本当に助かりました。
震災時、物はなくとも一番ありがたいのは
マンパワーと優しさ、そして知らない人同士でも臆せず相手を気遣ってくださる声かけです。
まずは、ここまでで、いったん記事は終了したいと思います。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。