いつか掌に汗をかいてどこかに吸い込まれてしまいそうでそわそわと混乱していたとき,ふと手に取った『歯車』を読んでいたら妙に落ち着いた。部分が全体で全体が部分であるようなものに人間は安心感を持つのかもしれない。その時はただその小説の素晴らしさを実感したと思っただけだったのだけれど。こんな経験がいつか自分を救うのかもしれない,そう思ってまたこれを続けてみようと思いました。いろんなことがあった。
三四郎の世界。
新潮文庫の解説の方がお書きになっているように、それは確かに作者の言語空間の中にだけあるのかもしれない。言語空間という一種の閉鎖空間ということなのかもしれない。たぶんそんな意味だと思う。
だけど僕は行けると思う。
言語空間が閉鎖空間ならば、僕らはそれをよく知っている。いま本を読む者にとって、閉鎖空間はとてもリアルなのだから。
宗教と倫理は、本当は、とても、遠くて、相容れないものなのかもしれませんね。アント?罪と罰のように?