先週、美容室へ
シャンプーを洗い流す際に美容師の手が耳に当たった瞬間...
とんでもない、そう除夜の鐘のような金属音が耳に響いた
「えっ! 今のなに? 何があったの!?」 かなりの衝撃に驚きが...
そこからワーンワーン・キーーンと耳鳴りがする。
(これはかなりうっとおしい)
耳を中を触ると金属が擦れる音。
耳が詰まったていて自分の声は水中でこもった様で更にキーンと響く感じ
更に右に比べ左耳で聞こえるのは1/3程度 TVの音も夫の声もかなり聴こえ難い
美容室でシャンプーで耳に水が入ったからか?? 炎症??
近くの耳鼻咽喉科で聴覚検査をすると3年前より左だけでなく右耳も悪化はしているそう
実は3年前、左耳に聴覚処理障害の診断は受けていた。
※音は聞こえているのに言葉が聞き取れない状態です。
つまり、音が耳に入ってから脳に伝わるまでの段階は正常に伝達されているにもかかわらず、
脳に伝わった情報を処理して”内容を理解する”ことが障害されています。脳機能障害の一つ。
聴覚情報処理障害の患者は、周囲に騒音がある中で、雑音を排除して、聴きたい音だけを聴き取るカクテルパーティー効果も充分に機能しない。
したがって、例えば、周囲で多人数が話している状態での言葉の聴き取りなどに苦渋するなどといった症状が見られる
↑まさにアタシです
ちなみに、発達障害も原因の一つだそうで検査はしたけど、それは無かったそう
(そこは良かったけど、仮に50歳過ぎて発達障害と診断されてもそーしようもできないしな)
そこへ今回は左耳には「突発性難聴の疑いがある」ので専門医で診るよう紹介をされたの。
(発症後1週間以内に適切な治療を受けることができれば、ほとんどの方に聴力の回復が見られるといわれている)
そんなに簡単に診察予約も取れない。
どう考えてもより深い検査などが控え、通院が必要だと思う
困った話である。 今週よりお仕事のスタートもあるのに...最悪なタイミングである
この状況を職場に理解してもらえるのか??
業務にかなり差支えもあるし... こんな話をしたら就労契約をしていないんでクビになるかしら??
って、この耳鳴りがかなり辛いのと、クビでも良いから治療に専念したいっ
夫曰く「SOLさんは繊細さんやから、新しい会社へのストレスが知らず知らずにあり発病したんじゃないか??」と
アタシはそこもまでストレス感じてなかったんだけど... 気付かなかっただけ??
新会社ピカピカの一年生、突発性難聴の有無の結果はまた次の機会で書けれたら
本題
墓参り翌日 小松市のミニスポットへ
大雪で石川県の能登では記録的な大雪では停電や孤立する集落もあるそう(年始には大震災も)
そんな時に墓参りに石川県までノコノコやってきた我が家
しかし、我々が来た時は気温が雪から雨へと変わり寒波も少しおさまってきており幸い
北陸線が止まったら帰れなくなるから
大雪が続かなくって良かったよ
さて、恐竜博物館にでも立ち寄ろうかとも思ったが、結構僻地にあるので青春18での移動が大変。
福井の遊郭跡や鯖江のメガネミュージアムなど考えたが、近場のマニア的な地に行ってみます
小松駅からバスで15分ほど
アタシの両親のふるさと小松市には串茶屋町という町がある
街道沿いに団子茶屋があった事が想像できる町名で昔から気になってたのよね~♪
住宅地を抜け
新雪を踏みながら墓場の奥へと進む
(こんな季節に墓場に来ても誰も雪かきしないから行くべきではないよな)
『串茶屋遊女の墓』
墓場の奥には、
江戸の藩政時代に遊郭があり、江戸時代中期から明治時代初期に建立された数多くの遊女の墓があるの
全国で遊女の墓を見かける事はあっても、多くは一括供養されている場合が多いのよね。
ここ串茶屋では珍しく個々に手厚く葬られてるの
当時の遊郭は、全国アチコチにあるけど、
現在では影も形もなくなっているか、もしくは建物が現存して観光地となり観光客で賑わっているか、
または、形を変えて風俗街として現在も営業しているかなどいくつかの形態があるの。
この串茶屋遊郭は、そのどれにも当てはまらなく、遊女の墓だけが地元の方により大切に守られていることにあるのよ。
が・・・
せっかく雪の中を訪れたものの、冬の間は墓が傷まないようビニールに巻かれてるのよぉーー
なんだそれ! ほんなら来んわー
↓無積雪時期の写真を借りました
年齢を見てると年季明け前で20歳前後で亡くなられてるのね
切ないよね
遊女は、だいたい27~28歳になれば、年季があけて自由の身になれたのね。
しかし大半の遊女は性病や堕胎、ストレスなどで肉体を蝕まれ、若くして死んでしまうの
ハアー これはまた来なければならないってことやな・・・
遊女の墓横にある、茶問屋の跡取りが相次いで亡くなり供養の為に建立した六地蔵。
六地蔵とは仏教の六道輪廻の思想では、
死後四十九日を過ぎると地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界のどれかに生まれ変わるそう。
このお地蔵さまは六道全ての姿を現し、生まれ変わったものへ教えを説き、救いの手を差し伸べてくれているそうよ
さて、遊女の墓より徒歩にて行った先は
味わい深いバス停を発見
明治天皇が立ち寄った歴史がある小松市串茶屋町の串茶屋民俗資料館
かつて茶屋街だった地域の歴史を伝える遊女の手紙53通も保管し、
遊女が使用したかんざしや印籠など約100点を展示してます。
遊女からの手紙。「しばらく来てないので来てね〜」という手紙。
営業電話するホステスさんと変わらないねー
”花魁” へえー 歌舞伎役者の玉三郎みたいだね
遊女で位の高い者のことをいう
花魁は教養も必要とされ、幼少の頃から徹底的に古典や書道、茶道、和歌、琴、三味線、囲碁、将棋などの教養、
芸事を仕込まれていたそうよ
容姿と教養を兼ね備えてないとダメなので、
人気のある遊女は浮世絵に描かれ、歌舞伎の登場人物にもなっていて、江戸時代の人々にとっては憧れのスターだったそう
大体の費用は、
初回は花魁の揚げ代が1両2分(15万円)、
さらに遊女屋への宴会代・花魁の周りの遊女・店主・男衆や女中にやり手婆へのご祝儀、
宴会の芸者などの揚げ代に出す祝儀は10~20両(100万~200万)くらい
花魁を指名する「引手茶屋(遊興の案内をする所)」での祝儀や宴会代も入れればもっと必要だったそう。
2回目も大体同じような費用がかかりますが、花魁とまだ会話ができません。
この資料館はかつて遊郭であった能登屋の離れを利用しただけあって、
煙管や胡弓や琴、三味線を前にした遊女の貴重な写真、龍を描いた天井画、手紙などが見られます。
龍の天井画
加賀藩お抱え絵師で活躍した佐々木泉景が描いたとされる天井画
こーいうベンガラ色の壁は金沢の東茶屋とかでも見れるよね
ちょうど加賀藩・大聖寺藩との境目があり、番所もあったそう。
文化・文政の頃には楼が二十軒あり、大きな遊廓として賑わっていた話でした
「寝て待てばつもる思いや春の月」、「睦言をはなすたのみや春の雨」など、遊女の思いを手紙につづられている
説明では代書屋もいた様子
そーいう手紙を貰った男性も自慢げに人に見せていたとか
北前船の船主たちや絹の豪商たちたちが、そんな遊女たちと馴染みになったようです。
先ほどの遊女の墓
遊女たちは一度遊郭に入ったら、もう自由に出入りはできません。
年季があけるまで働くか、遊女屋に大金を払って身請けをする客が現れるか、逃亡をするか・・・
(吉原の花魁の身請けだと現在で数千万~億単位だそう)
あるいは死んで葬られるまで外に出ることができなかったって話でした。
※加賀藩(大聖寺の宗家)では風紀取締りの為、遊郭の禁止が続く中で、
大聖寺藩の串茶屋の禁制は緩く加賀藩唯一の公認場所だった
品川(=志奈川)心中物語から盆踊唄ができたそう
※遊女・品川と徳兵衛は相思相愛でしたが、稼ぎのため他の男性の接待をする品川を徳兵衛が誤解し、心中に発展しました。
心中を題材にした盆踊り?? どんな歌詞なんだろう? 「品川死んじゃったよー よいよいよい」とか??
雪で大変だろうと館長が次の目的地に車で送ってくださいました
何から何まで有難うございました~!