今回はハッキリ言って全く面白くないかも
あくまでも備忘録で書いてるだけです
 
住んでる割に知らない事も多い阪急宝塚沿線
10月某日、街角散策ツアーに参加しました
「阪急、東宝創始者の小林一三氏の愛した街を訪ねる」
 

先ずは宝塚

言わずと知れた「宝塚歌劇」のモニュメント
 
あと、炭酸水「ウィルキンソン」の発祥の地
明治時代に炭酸水が湧き出ていた泉源を約5年前に特定したことで観光資源に活用しようと押しの一つだそう
 
 

JR宝塚駅から北の方へ、数分ほど緩やかな坂を登ると有馬街道に出ます。

昔、秀吉と利休がこの道を通って有馬温泉に湯治しに出かけていました。

 
ここ有馬街道より下は(今のJR,阪急宝塚駅周辺)武庫川河川敷で度々氾濫をする地理的にイマイチだったそう
 
 
有馬街道より下にある阪急電鉄宝塚駅と宝塚大劇場を結ぶ「花のみち」は、かつての武庫川の堤防跡を利用
今では宝塚歌劇まで桜をはじめ四季の花々が植えられ夢の世界に誘うような小径になってる
 
建て直された宝塚ホテル
宝塚大劇場
小林一三氏
 
大劇場を抜けると武庫川河川敷に出てきます
ちょうど阪急今津線の電車が走ってます
 
阪急電鉄創業者小林一三は三井銀行出身だが、
時代に翻弄され流れ流れて明治40年「阪鶴鉄道」監査役、「箕面有馬電気軌道」専務に就任
 
阪鶴鉄道とは尼崎~池田で営業していた"摂津鉄道"を延伸し、宝塚まで明治30年開業、福知山まで軍事物資輸送目的で明治32年開業。
(当初は舞鶴まで計画)
 
しかし、明治40年に阪鶴鉄道(尼崎-福知山)は譲歩し国有化され「国鉄 福知山線」となってしまう
※一三氏は国有化にあたり会社を閉じるため財務処理にやってきた
 
また、阪鶴が持っていた池田-大阪間の鉄道敷設免許は国有化直前に失効し、
箕面有馬電気軌道に継承され阪急宝塚本線の原型となった。
1910年3月10日に梅田駅 - 宝塚駅間と石橋駅 - 箕面駅間を同時開業させる
 
沿線は田園地帯であり採算が取れないのではないか懸念が強く、その様に「ミミズ電車」と揶揄されるほどだったそうアセアセ
今とは想像付かない田舎臭いネーミング
 
そこから沿線開発を!
 
扇状地で武庫川氾濫の多い現阪急宝塚駅周辺を護岸工事で整備し手に入れた土地に、
1911年に乗客誘致の「宝塚新温泉」を開業。
翌年には日本初の室内プール「パラダイス」を開業したが、
寒く男女共泳の禁止で不評だったので、1913年には現在の宝塚歌劇団の前身となる「宝塚唱歌隊」に変更。
(脱衣場が舞台でプールが客席)
 
1924年には4000人収容の宝塚大劇場と、遊戯施設を設置した遊園地「ルナパーク」(後の宝塚ファミリーランド)と植物園
1926年には「宝塚ホテル」
 
↓青いベランダのビルの後ろには2020年3月31日まで営業していた旧宝塚ホテル
 
こうして、宝塚に夢の世界を次々作ていった
 
併行して1910年に箕面に動物園、1920年阪急百貨店やなど精力的に整備開発し、
実は小林一三は東京急行電鉄の始祖である田園都市株式会社を実質的に経営していた時期があったそう
 
そうして小林一三と言えば宅地開発の話
これはあとにして、先に宝塚沿線屈指の高級住宅街「雲雀丘花屋敷」駅へ移動
 
ここは過去2つの駅があり双方が600mしか離れてなく後に1つになった
 
【雲雀丘】
宝塚市にあり雲雀丘駅一帯は、当時電鉄会社か土地会社による開発が主流の中において、
数少ない阿部元太郎氏という財界人・個人によって開発された。
(御影・住吉地区も開発を手掛けたので阪急屈指の高級住宅街を生み出した)
10万坪の土地を取得し氏が理想とする住宅開発を進めていった。
 
当時としては珍しい丘陵地帯を開拓した
徹底的に自然と傾斜を利用し山を削らず既存樹を活かし、建物部分のみを整地し元の自然の造形を生かし分譲。
道路に面するところには石垣や植栽等を義務付け景観ルールを設け1000坪単位での販売。
洋風モダンなライフスタイルを氏は好んでいたのちまだ住宅の屋根瓦を全て赤色に統一したいとも。
(全て赤にはなってなかったけどね)
 
駅前から伸びるシュロ並木
 
T邸
大正初期の建造で宝塚市には都市景観形成建築物というのが20件登録されている
 
庄司邸
設計者は宝塚ホテルを手がけた古塚正治氏
130421opengarden12
庄司邸洋館
 
 
この日開放されていた「高崎記念館」
メンタームの近江兄弟社の創業者ウィリアム・メレル・ヴォーリズが手掛けた家
※建築家でもあり大丸心斎橋など多数あり
 
高台で京都に向かい吠えるライオン
 
 
植物園のように沢山の草花が植えられている
屋内には入れないこど戸が開け放たれているので古い暖炉などを見ることができる
 
元主の高碕達之助氏は政治家であり東洋製罐株式会社の創業者
 
 
 
大金持ちの邸宅品評会の様な素晴らしい家が並んでいる
 
 
【花屋敷】
「花屋敷」といえば、東京・浅草のレトロな遊園地が有名だけど、
ここは川西市にあり箕面有馬電気軌道が作った駅と住宅地
 
北に2キロ離れた満願寺中腹に大阪の呉服商・田中数之助によって遊園地と温泉を併設した「新花屋敷温泉」を開発。
温泉へのアクセス路線として昭和3年に日本初のトロリーバス路線である日本無軌道電車を開業させた
(乗り心地に悪さと相次ぐ故障によって僅か4年で廃業)
 
当時、大大阪と言われた時代で市内は石炭の煙などで酷い公害だったそう
綺麗な空気を求めここに住宅地を築いたそう
雲雀丘が理想の大豪邸なら花屋敷は一般住宅地だそうで隣接しているのに街の景観もガラリと変わる
 
↓トロリーバスが走っていたので駅前より道幅が広くなってる
 
↓ちょうど宝塚と川西の市境のマンホール絵柄が違う
 
 
昔の花屋敷駅ホームの名残
 
さて、駅に戻ってきました
 
この駅も元は2つに分かれており
雲雀丘駅は阿部元太郎氏によ私設駅
花屋敷駅は箕面有馬起動鉄道の設置駅
 
統合の際に互いに主張を譲らず花屋敷側・雲雀丘側双方の自治会長によるジャンケンで勝敗を決したとの話もあるが、
結局は両方の名を残し駅を雲雀丘側へ寄せ新たに設置
 
駅裏手はホーム下が見えるスポット
車両下部じっくり見れる鉄ちゃん好きポイント
 
阪急では数少ないパタパタ式(反転フラップ式)発車案内板が現役で活躍する
 
最後に小林一三氏の自邸「雅俗山荘」のある池田駅へ
こんな華やかな方なのに住んでいたのは芦屋でなど高級住宅地でなく案外と庶民的な街
(日清食品の安藤百福氏もここでチキンラーメンを発明した)
阪急創業者の縁で阪急阪神ホールディングス・電鉄・バス登記上の本店所在地も池田市なのだ
 
我が街でもあるが実は来たことが無い「呉服(くれは)神社」
ビルと高架にはされ窮屈そうな鳥居
5世紀頃、呉の国から渡来して機織りや染色の技術を日本に伝えたという呉服姫(呉織媛=くれはとりのひめ)を祀る古社 
※応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された帰化人の阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)が連れ帰った呉服媛、穴織媛(あやはとりのひめ)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、この地に居住したという呉服媛と、仁徳天皇が祭神
 

拝殿の正面の両脇には、鷹と鶴の絵のステンドグラスが付けられていて珍しい
呉服姫は昼夜問わず布帛(織物)を織り続け、日本に織物・裁縫の技術が伝わる上で大きく貢献したので、
呉服は織物発祥の神様としてお祀りされているというわけです。
裁縫上達のご利益があることで有名で、今でも服飾や、アパレル関係の人たちから厚く信仰されているそう
 
 
この呉服神社のすぐそばにある「室町」が小林一三氏の歩み最後の訪問地
室町住宅は鉄道会社箕面有馬電気軌道)が分譲した日本で初めての分譲住宅地なんです
(それまでは旧市街地から離れた畑の中に神社がポツンと建っているだけ)
 
路線の開業した1910年、当時珍しかった月賦方式による住宅分譲を開始。
※頭金として売値の2割、残りを10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させるという
雲雀丘のような高級住宅でなく庶民でも手が届き安心し暮らせれるように
「模範的郊外生活」という生活スタイルを提唱し、
各戸に電灯と水道を供給し、
町倶楽部内には購買組合も入り、米穀・薪炭・酒・醤油・味噌などを販売し、ビリヤードのある社交倶楽部まであったそう。
周囲は公園のほかに果樹園などもありモダンで豊かな暮らしを提供していたそうです。
 
さすが小林一三が考えるだけの事はあるよね!
 
ほとんどが建て直されてるけど、1戸あたりの面積が長屋ではなく100坪もの広い区画でゆったりと建てられてます。
 
住居もゆったりなら猫もゆったり
ツアーで大勢が2度横を通過しているのに全く動じず
陽が当たりアスファルトがホカホカ気持ちいいんだね!
 
↓1911年に建てられた和風の室町倶楽部が前身で、1936年に外観を洋風に大改造し現在の室町会館に至ってる
居住者組織として室町委員会を結成(後に室町会へと継承する)
1950年に室町会は社団法人化、現在コミュニティ活動をおこないながら2005年には、「池田室町住民憲章」を制定。
なかなか住民意識が高く町に誇りを持たれてるのが伺えますよね
 
 
余談ですがアタシの住んでいる町も室町ほど歴史は古くは無いけど、
1920年代に室町住宅の開発に触発され阪急電鉄が次々開発販売した町の一つで「住民憲章」もあるんです
地域文化活動も年配者を中心に活動が盛んなようです。
昔のような名残は少なくなったけど雲雀丘ほどの邸宅じゃない洋館もチラホラ残っています
(以前は教会も有ったが移転してしまった)
 
神戸線や京都線は宝塚線以降の開発になるので、
阪急宝塚沿線には若かりし頃の小林一三のセンスとプロデュース力の高さを感じるものが残っています。
実験的な沿線でその後の都市づくりのモデルになったそうで宝塚沿線住民としては当時の最先端の夢の町で少し誇らしい照れ
って、改めて思わせる街角ツアーでした
 
 
小林一三氏の華やかさやエレガントさへのこだわりを感じさせる場所が阪急梅田駅にも
 
先ずは鏡のようなホーム
黒い床がピカピカなのは清掃係員が1日平均25人、巡回して終電後に高濃度の樹脂ワックスが塗られ床面を磨いている
(だからって滑ったりしない)
車両も明治43年から100年以上にわたり、「阪急マルーン」と呼ばれる伝統の色を使い、
古い車両でも雨が降ろうが、黄砂が降ろうが、汚れ一つなく光沢を放っている。
無塗装のステンレス車両を導入すれば、かなりのコストダウンが図れるが、
時代とに逆らい塗装はなんと4層構造で、下塗りした後に下地のパテを塗り、中塗り、上塗りと重ねている
 
阪急としての気品や格式のイメージを守るためこう言うところも徹底している
 
五戒が残されています
一、吾々の享(う)くる幸福は、御乗客の賜なり。
一、職務に注意し、御乗客を大切にすべし。
一、其日になすべき仕事は、翌日に延ばすべからず。
一、不平と怠慢は健康を害す、職務を愉快に勉めよ。
一、会社の盛衰は吾々の雙(双)肩にあり、極力奮闘せよ。