武田惣角が修めた柔術流儀、即ち、大東流の母体となった流儀については未だに謎に包まれている。

 「御式内」こそが大東流の元となった流儀である、と云う説を唱える人もいるが、果たして「御式内」なる武術体系は本当に実在したのだろうか?   

 『図解コーチ 護身杖道』(昭和58年刊)に
おいて、著者である鶴山晃瑞師範は、「(大東流の源流は、)幕末に会津日新館の総知を結集して完成させた御式内である」と記している。

 たまたま見付けた会津日新館の図面を見ると、剣術や弓術の稽古場が流儀毎に複数配置されているのに対し、柔術の稽古場は一か所のみで、そこには流儀名も記されてはいない。
 当時、剣術・弓術・砲術の鍛錬は重視されていた様だが、柔術はそれほど重視されていなかったのではないだろうか。この図面を見て、そんな印象を受けた。
 この時代、柔術の素養が重視されていたとは思えない。「幕末に会津日新館の総知を結集して御式内を完成させた」と云う話にも疑問を感じる。
 大東流師範の中には、「これが御式内の技だ」と云って演武を披露する人もいるが、御式内に関する文献資料が発見されたことは、今まで一度も無かったと記憶する。

 いずれにしても、これから研究が進んで、大東流の母体流儀の確定作業が進展すれば、御式内の実態も自ずと明らかになることだろう。

※下図の右側、赤線で囲んだ所が「柔術場」