往生思想 | 京都暮らしの日々雑感

往生思想

団塊の世代がそろそろその寿命が尽きて「多死社会」と呼ばれる。

未婚者や、配偶者を先に喪っての独居老人世帯が増えて、

「孤独死」と呼ばれて、

これはこれで様々に深刻な事態と理解されている。

 

人間の一生の終焉が「孤独死」であるかどうかについて、

浄土教の教えによれば、そもそも「孤独死」ということはあり得ない。

必ず、お迎えがあるのである。

 

平等院の壁画には、

阿弥陀仏のその眷属が打ち揃って、

賑々しくも晴れやかに歌舞音曲とともにお迎えが来るのであって、

死後の道行きは決して闇夜を孤独に歩むというものではない。

 

阿弥陀仏が一人一人の死を迎えに走るということはとても間に合わないだろうと、

言わば阿弥陀仏の命を受けたその代理仏が迎えに走るのであって、

つまりは、誰一人取りこぼすことなく、

間違いなく浄土に送り込むという分けである。

 

京都には「見返り阿弥陀」という仏像がある。

阿弥陀仏が死者を浄土に導く際に、

その一隊の行列から外れて道を誤る者が出るかも知れないので、

その隊列の先頭に立つ阿弥陀仏が、振り返り振り返り、全員の所在を確かめるという、

実に行き届いた配慮に満ちたお姿なのである。

 

誰一人余さず浄土に導くというのが、日本浄土教の教え奈央である。

このことは日本の大乗仏教の思想的根本としての本質であって、

その一帖思想のもたらしむところである。

 

日本の浄土教の受容は、

仏教それ自体の伝来とともにあって、

人々の「救い」をもたらす仏教思想である。

従って、庶民大衆の「救い」を求める要求に応えるものであり続けたのだが、

歴史的には、法然浄土教が確立されて、宗派として拡大していって、一般化したというのではなく、

それ以前において、既に、庶民層において強力に布教されていたのであった、

 

六波羅蜜寺に祀られる空也上人像では、

口称念仏を象徴する六体の仏がかたどられている。

行願寺では、革上人と親しまれる行円上人の像がある。

いずれも「聖」と指称される存在なのであるが、

菩薩業の実践者として揺るぎない信仰を集めたのであった。

言い替えると、浄土教という教えは、

個人的な救済を求め、それに拘泥するだけの教えではなくて、

広く、国家・社会に対する菩薩業の実践の教えであるという点を見過ごすことはできない。