オリオン・クラウタウ著「隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』ちくま新書 | 京都暮らしの日々雑感

オリオン・クラウタウ著「隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』ちくま新書

「偽史」というからには、

「東日流外三郡誌』」や『竹内文書』も取り上げるのかと思ったのだが、

それは関係ないらしい。

メインとなるべき聖徳太子信仰を取り上げるのかと期待したのだが、

聖徳太子と秦氏との関係がどうこうと言った常識的なことは取り上げるのだが、

余り掘り下げられるわけでもない。

むしろ、論議の中心となっているのが、

梅原猛先生の『隠された十字架』であり、

五島勉氏のノストラダムス本であり、山岸凉子氏の「日出処の天子』であったりする。

だから、どうもその主旨が明確ではないのである。

 

聖徳太子の時代については、

例えば、蘇我氏についての評価として、

開明派であり、国際派であり、日本の歴史を主導した政治勢力であったとする再評価がなされ、

天皇家の支配を壟断する不敬な独裁者ではなかったとする見地が出されている。

その蘇我氏の評価の進展によって、

聖徳太子の役割とその功績も、ある程度変わってくるのではないかと思えるのだが、

そこまでは研究も進められてはいないようなのである。

17条の憲法にある『和を以て貴しとなす』は、

ある種の国体論として、仏教国家の宣明文のように捉えられるのだが、

実は仏教のみならず儒教の思想を取り上げられていることが指摘され、

単純に仏教国家を目指すものではなかったことが理解されている。

 

聖徳太子の事蹟について、

聖徳太子という人格は『日本書紀』がでっち上げた虚像であるという説が、

大山誠一先生によって唱えられ、

もし聖徳太子伝説を語ろうとするならば、

この否定説を採り上げて一定の結論を示さないといけないはずなのだが、

本書では全く触れられてじゃいない。

多分、著者の手に負えないテーマなんだろうと想像する。

 

オカルト論に逃げ込んで、『良識』を振りかざして難詰するといった方法論では、

何かの成果を生み出せるわけでもないのである。